『幻灯綺譚』

『幻灯綺譚』

「いやだいやだいやだ!」
 夕闇に包まれた庭の真ん中で、一人の幼子が声をあげている。
丁寧に仕立てられた着物を着た男の子の歳は三つか四つ。黒髪を短くそろえ、垂らした髪型は幼い顔立ちとあいまって少女のようにも見えるが、腰に差した小さな刀が男の子であることを示している。
陽は既に大きな屋敷の背後に隠れ、玉砂利の敷かれた庭に長い影を落としている。門まで点々と置かれた丸石の両脇には、石造りの灯篭が規則正しく並び、その中に蝋燭の炎を灯していた。
「わがままをいってはいけません。早くしないと先方の三原家にもご迷惑がかかりますよ」
 男の子の数歩先に立つ母親はその整った顔に困り顔を浮かべながらも、むずかる子をたしなめる。
 一児の母とは思えぬほど若々しい彼女が纏うのは、藤色の小袖。しかしそれは一目見ただけで上物と分かる生地で作られ、腕のいい職人の手によるものと分かる精緻な刺繍が入っている。長い黒髪は結髪せずにゆったりと背に流されていたが、彼女の立ち居振る舞いにあふれる美しさのためか、不思議と品を感じさせた。
「ほら、そんな古びた提灯はしまって。こちらを使いなさい」
 そういって母親が、手にした提灯を差し出す。竹ひごに障子紙を張った卵形の高張提灯と呼ばれるもので、火袋の中で灯る蝋燭の火が、全体を橙色に染めている。火袋に張られた紙も真新しく綺麗なままで、出かけるために下ろしたばかりなのだろうと分かる。
 だが男の子は差し出された新品の提灯から一歩下がると、先ほど以上に大きな声を出す。
「やだぁ!」
 広い庭にあまねく響くような声に驚いたひぐらしが鳴き止み、庭にそびえる木から飛び立っていった。遠くでは犬が吼え、庭木はざわざわと、葉ずれの音を立てる。
 それに構わず、男の子は涙を浮かべながら母親に背を向ける。唇を真一文字に引き結び、そのまま何か大事なものを守るかのようにその場にしゃがみこんだ。
 その小さな手がしっかと握り締めるのは、母親の手にあるものと同じ、手提げの提灯だった。
 子供が持つにはやや大きい、巴紋の入った、高張提灯。ずいぶんと年季の入った品のようで、張られた紙は古び、留め金にも錆が目立つ。
 ついさっきまでは中で燃えていた火は、男の子がしゃがんだ拍子に消えてしまったようだ。それでも男の子は提灯の柄を握り締めたまま、固まったようにしゃがみこみ続ける。
「ほら、由緒正しい刀祢家の跡取りがそんなことでどうするのですか」
 母親の声にも男の子は答えず、ぎゅっと目を瞑る。
「その古い提灯では、三原の方々に笑われてしまうでしょう?」
 先ほどよりかは幾分やさしげな声で掛けられた言葉にも、男の子はぶんぶんと首を振る。その姿はこの古びた提灯でなければいやだと、てこでも動かないと雄弁に語っていた。
 そんな息子のことを母親は困ったように見つめていたが、やがてふうと小さく息を吐き出した。
 いつの間にか深さを増した闇の中に、諦め交じりの母親の声が響く。
「そんなにその提灯がいいなら、仕方ありませんね」
 先ほどまでとは変わった母親の声色に、男の子が顔を上げる。きょとんとした顔の息子を見つめ、それから視線を外して門の方を見やりながら、母はどこか自分に言い聞かせるように呟いた。
「その提灯は……旦那様が愛用していた品ですし、付き合いの長い三原の方々なら分かってくれるでしょう」
 母親は男の子を立たせ、しなやかな指でそっと彼の目元に浮いたままの涙を拭う。それから自分の差し出していた提灯をたたみ、赤々と燃える蝋燭を露にした。
「ほら、貸してごらんなさい。」
 母親の言葉に、男の子は提灯を握る手に力をこめる。
「……」
 その様子を見て苦笑した母親は、彼の頭をそっと撫でて言った。
「心配せずとも取り上げはしませんよ。いつまでも火が消えたままじゃ、その提灯もかわいそうでしょう?」
 そういって手を差し出した母親に、男の子は恐る恐る自らの持つ提灯を差し出す。それを受け取った母親は、やや短めの蝋燭の先端へと、炎を近づけた。
 黒い芯に小さな火が移り、彼の手にした提灯に再び明かりが灯ると、ほのかな明かりが涙に濡れた男の子の頬を染め、母親の穏やかな笑みを浮かび上がらせた。
 母親は男の子の提灯を元通りに伸ばすと、その柄を再び小さな手に握らせる。
「はい、これでよし。これ以上遅くなってしまうといけませんから、少し急ぎますよ」
 自分の提灯を右手に持ち、反対側の手で男の子の手をとると、母親は門へ向かって歩き始める。すっかり夜色に染まった庭の先には、屋敷をぐるりと取り囲む塀と、大きな木の扉を開けた門がある。その側にはいつの間にか篝火が焚かれ、ぱちぱちと音を立てていた。
 母親と手を繋ぎ、漆塗りの下駄が玉砂利を踏みしめる音を聞きながら、男の子もまた足を進める。
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