『愛に溶けるまで』

「はぁ、はぁ……」
 息を荒くし、壁に手をつきながら、私はのろのろと廊下を進む。
 まだ時刻は昼前であり、窓の外には明るい日差しが降り注いでいる。窓から差し込む日差しと陰が交互に繰り返す廊下はひっそりと静まり返っており、私以外の人の気配はしない。
 それも当然だろう。今の時間なら、この宿舎で暮らす候補生は皆、講義や実習に出かけているはず。騎士候補生としてこの学院に通うものに、授業を怠け寄宿舎に残るような者はいない。
「そんなの、私くらいか……」
 切れ切れの息と共に自嘲気味に呟く。けれど、人気のない廊下は今の私にとっては幸いだった。
 なぜなら、全身をローブに包んだ今の私の格好は、誰かに見つかれば不審者として報告されてもおかしくないからだ。
「うう……」
 目指す場所はここから目と鼻の先ほどの距離にも関わらず、私の歩みは遅々として進まない。きょろきょろと辺りを窺い、人の姿がないかを確かめながらなので仕方がないのだが、気を張り詰め、神経をすり減らすその行程に嫌気が差しつつあるのも確かだった。
 踏み出した足元から、ぬちゃ、という音が響き、思わず視線を落とす。
廊下の床板には、私の足跡が染みになって残り、持ち上げた靴底からはねばねばした液のようなものが糸を引いていた。
「くっう、ぅ……」
 その拍子に襲い掛かってきた感覚に、思わず声を漏らしそうになるのを堪え、私は再び歩き出す。雨など降っていないのに濡れた足跡を残していくのは正直気になったが、今の私にはこれをごまかしたり、後始末をしていくだけの余裕はなかった。
「あ、あと少し……」
 前方に目をやればドアに、「エレイン=バートレット」と自身の名が書かれたプレートが掛かっているのが見えた。ようやく、目的の場所である自室へと戻ってこれたようだ。
 辺りを見回し、誰からも見られていないことを確かめると、私はドアを開け、自室へと滑り込んだ。そのまま後ろ手に扉を閉めると、鍵を掛ける。
がちゃり、と金属音が響くのを聞き、ようやく人心地つくことができた。
「はぁ……っ」
 安堵に胸を撫で下ろし、呼吸を整えて、大きく息を吐き出す。
 昼だというのにカーテンを閉め切った部屋の中は薄暗く、物音一つしない。わずかに差し込む光によって、壁際の机や戸棚、壁に掛けられた一振りの剣が、ぼんやりとその輪郭を浮かび上がらせている。
 不意に、くちゅ、と水気を帯びた音が響く。
「ん……ふ……っ」
 身体が震え、思わず声を漏らしてしまう。
視線を落とせば、太ももを伝い垂れた雫が床に染みを作っていた。ただの水滴ではなく、汗などでもない。それは水とは違ってもっと粘り気を持ち、そしてほんのりと桜の色に染まっていた。
 肌を撫でる粘液が滴り落ちるたび、背にぞくぞくとしたものが走る。
「くぅ……」
 私は唇を噛み、複雑な思いで足元を睨みつけた。見つめる間にも、ローブの裾からはとめどなく雫が垂れ落ちて靴を汚し、床板の染みを広げていった。
 後から後から垂れていく桃色の粘液は、足元に水溜りを作るほどになっている。液はその表面を不自然に波立たせ、意思を持つように蠢き、足首に絡み付いて、這い上がってこようとしていた。
 その度に触れられた肌だけでなく、身体の奥底にまで何かが染み込んでいくような、奇妙な感覚が私を襲う。
「ふあ……、や、あ……んっ」
 耐え切れず、声を漏らした私はぶるぶると身体を震わせ、ローブを脱ぎ捨てる。肌が外気に晒され、ひやりとした感触が伝わった。粘液の水気を吸い、びしょびしょに濡れたローブが、べちゃりと音を立てて床に落ちる。
 壁際におかれた鏡に目を向ければ、今まで布に覆い隠されていた自分の姿がさらけ出されているのが見れた。
 そこに映る異様な姿に、私は呻くように言う。
「いやぁ……こんなの……」
 鏡の中の少女は顔を真っ赤に染め、開かれた口からは荒い呼吸が繰り返されている。長い金の髪は乱れ、前髪が汗で額に張り付いていた。
 身に付けていた騎士候補生の制服はところどころが溶け落ちたようにボロボロで、かろうじて襟飾りと胸元のリボン、肩の袖が形をとどめているくらいだった。胸から股間にかけての布地はほとんど残っておらず、胴の部分はほとんど肌が露になっている。
 そして、私の胸の双丘や股間には、桃色の不定形生物――スライムがまとわりついている。スライムが付着しているのは胴体だけではない。腕や足も粘液に覆われ、さらには頭にも帽子のようにスライムが載り、長い髪を伝って雫を垂らしていた。
「ん……うぅ……っ」
 濡れた布とスライムが肌に張り付く感触に、私は首を振る。乱れた髪から粘液が飛沫となって飛び、鏡に跳ねた。
自分自身の姿が、垂れた粘液に汚れた鏡面で歪む。
 それを見つめ、今にも泣き出しそうな顔をして、鏡の中の私の口が動く。

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