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『竜婚礼記』
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山間の小さな村に住む少年――クベルの朝は、竜の咆哮と共に始まる。
「ふぁ……。もうそんな時間かぁ……」
いつものように大空の向こうから聞こえてきた声で目を覚まされ、クベルはベッドから
身を起こした。あくびと共に呟く声に、窓の外から飛び立つ小鳥の羽根音が応える。
「……ねむ……」
年のころは十六、七くらいだろうか。あどけなさを残す容貌の少年は、眠りの世界を名
残惜しそうに目をこする。この辺りの民には珍しい漆黒の髪の下、開かれた目は美しい緑
玉の色をしていた。
「だる〜……」
寝起きの頭はいまだぼんやりと靄がかかっていたが、ベッドの上に座っているうちに段
々と意識もはっきりしていったようだ。
体にかかっていた毛布をどかし、立ち上がる。窓を開けると、雲ひとつなく澄み渡った
大空が見えた。朝の気配をいっぱいに含み、吹き込んだそよ風がカーテンをわずかに揺ら
す。
「ん、今日もいい天気だ」
窓から身を乗り出し、朝から力強く降り注ぐ陽射しに目を細め、空を見上げる。彼の声
に答えるように空からは先ほどと同じ大気を震わせる声、そして力強い翼の音が近づいて
くる。
窓から身を乗り出すと、悠々と飛ぶ竜の姿が目に入った。その巨体が太陽を遮り、地に
影が落ちる。
「あいかわらず元気だな」
クベルは呟き、空を翔る竜を目で追う。この世界に住む魔物の中でも、強大な力を持つ
竜の姿をその目で見たにもかかわらず、彼の声に驚きも恐怖もなかった。むしろ変わらぬ
姿に安堵しているような気配すら漂っている。
だがそれも当然。
なぜなら件の竜は彼やこの村の住人にとっては守り神として古くから知られ、共に暮ら
してきた存在だからである。人よりもはるかに強大な力と高い知性を持つ竜族は、この
村のみならず世界各地にその存在が確認されている。だが、いま大空を悠々と飛ぶ彼の竜
はよその人々が噂するような、人を襲い害する邪悪な魔物とはまったく別での存在あるこ
とを彼をはじめ村の全員が知っていた。
やがて竜は村を取り巻く森の向こう、彼の家からは少し離れた場所にある空き地に降り
ていった。木々の陰にその巨体が隠れるのを見届けると、クベルは慌てて自分に言う。
「おっと、こうしちゃいられない。着替えないと」
あと数分もしないうちに、「彼女」がやってくることだろう。待たせでもしたら、どん
な目にあうことか。
「やれやれ」
ほんのわずか、苦笑いに口元を緩めるとクベルはクローゼットへと向かう。だがその声
とは裏腹に、彼の後姿はどこか楽しげであった。
シャツの上にベスト、はきなれたズボンにベルトを締め、いつもの服装へと着替
えたクベルは寝巻きをベッドの上に無造作に放り投げる。くしゃくしゃになったシーツや
毛布といい、ベッドの周りに散らかる本やら雑貨やらといい、室内はだらしないとしか言
いようのない惨状であったが、一人暮らしである彼にはその散らかり具合を責めるものも
いない。
とはいえ流石の彼にもそろそろ室内の散らかりようはまずいかなという考えが浮かぶ。
きちんと片付けないとデビルバグやらに住み着かれるかなと頭の片隅で思うとほぼ同時。
彼の聴覚は家の外から聞こえてくる軽やかな足音を捉えた。靴のものとはわずかに違う
響きを持つ足音は彼の家の前で止まり、続いてどんどんと勢いのいいノックの音が彼の耳
に届く。
「く〜べ〜る〜っ! お〜き〜て〜っ!」
絶え間なく戸を叩く音に混じって、少女の声が響く。
「もう来たか。はいはい、起きてるよ」
毎日のように聞いているその声に変わりのないことを確かめ、クベルは安堵の笑みを漏
らしながらドアへと向かった。いくら丈夫な木製の扉とはいえ、放っておいたら彼女の力
で粉々にされてしまいかねない。
「ほら、ファフ。今開けるから」
少女の声に応え、クベルは鍵を外す。すぐさま開かれた扉の向こう側には、真紅の髪を
した美しい少女が立っていた。ファフと呼ばれた彼女はクベルの姿を目にすると満面の笑
みを浮かべ、一際元気な声を出す。
「おっはよ〜! クベル!」
「おはよう、ファフ」
クベルの挨拶に、ファフは嬉しそうに目を細める。彼女の腰から伸びる、硬い鱗に覆わ
れた尻尾も、同じく少女の内心を表してゆっくりと振られていた。
そう、ファフの体には人が持つはずのない器官がある。尻尾だけではない。真紅の髪か
らは鋭く尖った一対の角と、ヒレのようなものがのぞいているし、顔やお腹、肩や太もも
など一部は人と同じ肌色の皮膚をしているが、腕や足はその途中から尻尾と同じ紅く硬い
鱗に包まれ、背には皮膜の翼が折りたたまれている。
人間の娘と竜を一つに合わせたような姿。それが先ほど大空を飛んでいた竜
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