青年は逃げ続けていた。
森の中を、ただひたすらに走り続けていた。
20がらみの若い顔、主神教団兵士の鎧は既に脱ぎ捨てられ、薄手のシャツとズボンという出で立ち。
名はノアと言った。
ノアは何度も後ろを振り返りながら、木々の間を駆けていく。
何から逃げているのか。魔物か、それとも敵前逃亡を咎める主神教団か。自分でもわからなくなっていた。
ひたすらに逃げ続けた果てに、ノアは目の前に館がそびえているのに気が付いた。
不気味な館だった。
錆びだらけの鉄門には鍵がかかっていなかった。門を押して、中に入る。
人の気配は全くない。館を取り囲む庭には雑草が生い茂っており、遠からず館は森の一部として取り込まれるだろうと思わせた。
ノアは空を見上げた。木の葉の隙間から見える空は、夕日によって染まりかけている。
夜の森をあてもなく彷徨うのは自殺行為だ。廃墟でもいいから、夜を越せる場所が必要だろう。
目の前の館は、この上なく適していた。
ノアは館の扉を開けた。誘われるかのごとく、鍵はかかっていなかった。
明かりのない玄関ホールがノアを迎えた。
行く先は3つ。左右の通路、奥の登り階段。
しばらく悩んだ末、ノアは奥の階段に進む。直感だった。
その足に迷いが無いのは、主神教団を抜け出した自分にはもう帰る場所が無いと悟っていたがゆえの、やけっぱちに似た感情によるものだった。
階段を登りながら、ノアはこれまでの人生を振り返る。
思い出せるのは、灰色の空、教会の白い壁。
それが最初の記憶だった。
ノアは孤児である。親の顔すら思い出せないくらい幼い頃に、教会の前に捨てられたのだ。
主神教団によって拾われて、育てられたノアは、同じ境遇の他の子供たちと同じように、教団の教育を受け、教団の兵士となった。
特別なことは何もない。一山いくらの使い捨ての兵士である。
そして、魔物狩りの部隊に参加させられて、この森にやってきた。
部隊が森の奥深くへと到達した時、魔物の集団に襲われた。
仲間たちが容赦なく剣を抜く中、ノアは剣を抜けなかった。
彼ら、いや彼女らは、クモの足や獣めいた体毛といった一部分を除いて、ほとんど人間と変わらぬ姿をしていたのだ。
巨大クモや、獰猛な狼といった、教会で教えられてきた魔物の姿とはあまりにかけ離れていたのだ。
躊躇しているうちに、魔物たちはノアの仲間を捕らえると、森の奥へと連れ去って行った。
おそらく食料にされるのだろう。見た目が違うだけで、彼女たちも魔物なのだ。
剣を抜くことも、黙って魔物に囚われる事もできぬまま、ノアは逃げ出した。
仲間たちの悲鳴を背に受けながら、重い鎧と剣を捨て、ひたすらに走り続けた。
行くあてもないままに。
気が付くと、階段を上りきっていた。
通路は左右に分かれていた。直感で右を進む。
そして、一つの扉の前でノアは止まった。
妙な気分だった。人の気配が全くないのに、誰かの意志によってこの扉まで誘導されたような。
ノアは扉を開けた。
小さいが、整った部屋だった。
宿屋と同じくらいの質の簡素なベッド、作業机、壁際には本がみっちりと詰まった本棚。
廊下の埃が積もった絨毯とは違い、この部屋の床はよく掃除がされている。
そして、部屋の奥には鎧が鎮座していた。
見事な鎧だった。
黒鋼で形作られた全身鎧は、黒曜石のごとく磨き抜かれている。
黒い体をくっきりと浮かび上がらせるように、その体表を赤色の溝が走っており、まるで血管のような生々しさを感じさせながらも、鎧の持つ上品さを欠片も損なっていない。
腰には短剣が備えられており、鋼の輝きを帯びている。
兜は無い。だが、今にも首なし騎士として動き出しそうな、不気味な威圧感を感じさせる。
魅入られたかのように、ノアは鎧に近づいた。
「賊か」
その時、短い声がノアを咎めた。
辺りを見回すが、声の主の姿は無い。
「誰だ」
「先に名乗らぬか、この無礼者め」
少女のような可愛らしい声だが、声の威圧感は本物である。
ノアが戸惑っていると、声の主は鎧の中から姿を現した。
人の形をした霊体と呼ぶべきだろうか。
炎のように赤く染まった人型の霊体が、鎧の中から抜け出てきたのだ。
魔物の分類に長けた者がこの場に居れば、彼女をリビングアーマーに種別したことだろう。
滑らかな曲線を描く肢体と膨らんだ胸が、魅力的な少女のそれであることにノアは驚いた。
ノアは霊体に対して一礼した。
「僕はノア。夜を越すために一晩だけ、ここに居させてくれないだろうか」
霊体は鼻で笑った。
「はっ、宿だと?ここでお前は死ぬというのに?」
「なんだって?」
疑問よりも早く、霊体はノアに向かって飛んだ。
身体の中に入りこま
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