第三話 再び街へ


「あのお婆さんのこと、覚えてる?」
プラムがそう聞いたのは、朝食の時だった。
二人が農場に腰を落ち着けてから、3ヶ月が経っていた。
窓の外に広がる花畑には、桃色の夜明花が咲き誇っている。
それはムイナ村にもたらされた魔物娘との生活のように、色あせることを知らないようだった。
「ああ、覚えてる。忘れるわけがない」
イーサンは、ウィルストン爺さんから貰ったホルスタウロス牛乳を飲みながら言った。
西の街で、狂気の暴徒の手からイーサンとプラムが生還できたのは、あの老婆のおかげと言っても過言ではない。
老婆が暴徒たちに嘘の情報を流してくれなければ、今ごろはあの街の街灯に吊るされていただろう。
「それでね、お婆さんをこっちに連れてこれないかなって」
「村に?」
「うん」
それはいい考えに思えた。あの街の路地裏で暮らすくらいなら、この村で過ごした方が絶対にいい。
朝食を終えてすぐに、イーサンとプラムは準備に取り掛かった。
テントなどの旅に必要な道具を、幌付きの荷車に積み込んでいく。
一番近い街と言っても、徒歩では何日もかかる距離であり、相応の旅支度が必要だ。
それから、あの桃色の花(イーサンはそれに『冬明花』と名前をつけていた)を収穫して、どっさりと積み込んだ。
表向きは、珍しい花を売りに来た商人と思わせて街に入り込むつもりだ。
それから、二人が急に居なくなれば心配するだろうから、ウィンストン爺さんに街に行く事を告げた。
「おめえら、そりゃやめといた方がいいぞ」
ウィンストン爺さんは、ウィンストン兄さんと言っても通じるくらい若々しい顔に、心配の色を帯びさせて言った。
「街はひでえ有様だって旅人の兄ちゃんから聞いたぜ」
「どんな有様だって?」
「主神教団の騎士どもが街を完全に封鎖しちまったんだと」
「そんな……中にいる人たちは大丈夫なの?野菜とかも、外から仕入れているんでしょ?」
プラムの質問に、ウィンストン爺さんは首を横に振った。
「教団の息がかかった商人しか入れねえんだと。それでも、中にいる奴ら全員を賄えてねえって話だ」
「その旅人はどこにいるんだ」
「うちの中にいるよ。街から逃げ出して、何日も飲まず食わずでやっとこの村にたどり着いたんだと。ひどく弱ってる」
それからウィンストン爺さんは、イーサンの目を見て忠告した。
「おめえにとって、あの街に思い入れがあるのは分かるから、無理には止めねえけどよ。今回ばかりはやめといたほうがいいぜ」



準備を終えると、二人は出発した。
ムイナ村に来るときは地獄のような道のりだったが、こうして余裕を持って歩いていると、それが嘘のように思えてくるくらい楽な道のりだった。
イーサンは力強い足取りで、プラムと積み荷を乗せた荷車を引いている。
長旅の経験で体が鍛えられたのか、あるいはインキュバスに変異したことで身体能力が強化されたせいか、どんなに荷車を引いていても疲れることが無い。
朝と昼はひたすら歩き通し、夜はテントの中でプラムと交わりながら眠りについた。
そんな気楽な旅をしていても、あの街での体験が蘇ることがある。
街中から浴びせられた、異端者を弾圧する目付き。
イーサンとプラムを狩るべく、松明を掲げ、凶器を手に徘徊する群衆。
かつて自分の少年期を輝かしく彩った街が、なぜあのようになってしまったのか。
それを考えると、たとえプラムの胸の中であっても眠ることができなかった。
「帰らないか?」
夜、毛布の中でイーサンは言った。
柔らかな虫の鳴き声と、心地よい春の空気がテントを包む中、イーサンの心はあの冷え切った街の事で占められていた。
その提案の声が震えているのを感じたのか、プラムは何も聞かずにイーサンの頭を抱きしめた。
しばらく、プラムの優しさに甘えた後、イーサンは言った。
「怖いんだ。あの街に行くのが。今度は無事に帰れないかもしれない」
「イーサン、私は大丈夫だよ」
イーサンはしばらく黙り込んだ後、ぽつりぽつりと語り始めた。
「あの街で、俺の父さんと母さんは結婚式を開いたんだ。お金を地道に貯めてようやく開いた結婚式で、俺は5歳だった。村の人も、街の人も、みんなが祝ってくれたのを少しだけ覚えている」
街で殺されかけた事を忘れているように、声は穏やかだった。
「月に一度、父さんに街に連れていってもらうのが楽しみだった。野菜の積み下ろしを手伝ったご褒美で、揚げ菓子を買ってもらったっけ。砂糖かけパンを油で揚げただけのものなのに、それが楽しみで仕方なかった」
昔の街は、とてもいい所だった。どの季節でも、街の中は活気に溢れ、子供の頃のイーサンの好奇心を限りなく満たしてくれていた。
路地裏を彷徨う孤独な老婆も、狂気に侵された主神教団も、存在しなかったはずなのだ。
過去の温かな街の記憶を絞り出すように、イーサンは昔話を語
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