安藤家の居間、午後のひととき。
「ねえ、母さん。」
「なにかしら、咲。」
本を読む手を止め、向かいに座って黙々と針仕事をこなしている恭子に咲は話しかけた。
「この間、エイプリルフールだったでしょ。」
「そうね。」
「母さんってエイプリルフールに、父さんに嘘をついたこととかってある?」
「え?」
恭子はぴたりとその手を止め、咲の顔へ視線を向け、首を傾げる。
「ほら、カップルや夫婦で嘘を言い合ってイチャイチャしてる人が毎年沢山いるでしょ。私が覚えている限りだと二人が嘘を言い合ってる素振りがないからどうなのかなって。そんな好奇心で聞いてみたの。」
「まあ…」
恭子は少しだけ唇を尖らせ、視線をそらしながら答えた。
「あるわ。」
「へえ、母さんもやっぱりしたことあるんだ。」
「結婚してすぐの…若気の至りというやつよ。それに咲が言うような、イチャイチャなんてしてないわ。」
「で。」
「え?」
「どんな嘘を言ったの。」
一瞬躊躇いの色を見せたが、抵抗は無駄と考えたのか恭子は自身がついた嘘の内容を簡潔に口にした。
「ほくろができましたって嘘をついたの。」
「…はあ?」
想像もしなかった内容に、咲は口をぽかんと開いてしばらく思考が停止してしまった。
「え、ほくろ?」
「そうよ。泣きボクロっていうのかしらね。お化粧ついでに右目の端にほくろを書いてみたのよ。」
書いたと思われる位置を人差し指で指しながら笑う母の真意が分からずにいると、それを察したのか母はその嘘にいたる過程を説明し始めた。
「ほら、私たちの肌って魔物娘の中でも特に白いでしょう。」
「まあ、白蛇だもんね。」
「文字通り、シミ一つ、それどころかほくろ一つない白い肌。そんな私の肌にほくろができたというのは…エイプリルフールでつく馬鹿馬鹿しい嘘にぴったりなんじゃないかと思いたってしまって、ね。」
「はあ。」
「普段ならお父さんに嘘をつくなんてしたくはないけれど、一度頭に浮かんでしまうとどんな反応をしてくれるのか知りたくなってしまって…つい実行してしまったわ。」
「それで…父さんはどんな反応を?」
すると恭子は静かにテーブルに手を置き、一つ深呼吸をした。
「今まで見たことがないほど目を見開いて驚いてくれたわ。」
「なら成功じゃない。」
「それがねえ…驚いてくれたのは計算の内だったんだけどその後が」
「その後?」
「そう。珍しい表情を見ることができたし、ほくろを消してネタ晴らしをしようと思っていたら、徐にお父さんが立ち上がって電話をし始めたのよ。」
「電話って誰に?」
「お父さんのお友達でお医者様の香山先生。」
「え、それって」
「人間の場合、ほくろのように見えて実は皮膚ガンだったり何らかの病気のサインであることがあるらしくって。で、お父さんは自分の妻にも同じことが起こったんじゃないかって思ったそうなの。だから今すぐ妻を診察してくれないかって電話を…」
「なるほど。」
真面目で母思いの父らしい行動だと腑に落ちる。
魔物娘は頑丈とはいえ怪我も病気も偶にだが負うことがある。純白の、きっと父にとっては何よりも美しく大切な母の肌にまがい物とはいえ黒いシミが浮かんだその衝撃は言わずもがなだっただろう。
「慌ててエイプリルフールだと説明して、謝ったわ。」
「父さん、怒った?」
「いいえ、何も言わず力いっぱい抱きしめて一言、何もなくて本当によかったって言われただけ。」
「それは…何より効く一言だね。」
「そうね。馬鹿なことをしてしまったんだって恥ずかしく思うと同時に、この人に愛してもらえてなんて幸せなんだと痛感したわよ。」
頬を若干の恥と、その何倍もの喜色に染めて恭子は微笑んだ。
「こんな私が言えることではないかもしれないけど、咲も何か嘘をつくときはよく考えてね。」
「はーい。」
「こら伸ばして言うんじゃありません。」
「はい。」
こうして安藤家の日常は過ぎていく。
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