「父さん、咲です。用事があるんだけど、入っていい?」
穏やかな休日の午後。
両親が寝室兼私室に使っている和室の前で声をかけると、寝起きのようなぼやけた返事が返ってきた。
「ん…。ああ、どうぞぉ。」
その声を聞いて衾を開けると、しゅうしゅうと心地のいい音をたてる鉄瓶がかけられた常滑焼の大きく立派な火鉢の前に、半纏を着た父親である安藤祐介が座布団を敷いて座り、目を瞬かせながらこちらへ視線を向けている。どうやらうたた寝をしていたようだ。
「もう、父さん。駄目じゃない。いくら暖かくなってきたからといって火鉢の前でうたた寝なんかしたら風邪をひいちゃうわ。」
「ああ、すまんすまん。ついうとうとしてなあ。」
「それにいくら洋室みたいに密閉された部屋じゃないとはいえ、火を点けっぱなしの火鉢の前で寝るのは危ないわよ。もしなにかあれば母さんがどれだけ悲しむか分からないわ。しっかりしてよぉ。」
咲がぷりぷりと小言をたれていると、目を擦りながら黙って聞いていた父は、何故か少しだけにやけながらこちらを見ていた。
「なんだか嬉しそうだけどどうしたの、父さん。」
「いやあ、おっとりしていると思っていた我が長女が、いつのまにか母さんに似てしっかりしてきたなあっと思ってね。父として実に寂しいけれど、いつお嫁さんに行っても不思議はないなって考えていたのさ。」
「もう、冗談を言ってないでしゃんとしてよ。」
「あはは、すまん。許してくれ。」
傍へ寄り肩をぽかぽかと叩くと、父は楽しげに笑いながら謝りつつ、火鉢の対面に座るよう促して咲が訪ねてきた理由を尋ねる。
「それで、父さんに何の用事があって咲は来たんだい?」
「読む本が無くなったから、いくつかお勧めしてもらおうかなと思ってきたんだけど、大丈夫?」
「おお、いいとも。というか、この間勧めたのはもう全部読んだのかい?」
「うん。面白くてすぐに読んじゃった。これ、借りていた本。返すね。ありがとう。」
「そうかそうか。感想は…後で聞くとして、まずは貸す本を選ぶとしようか。また面白い本をお勧めせにゃならんな。」
そう言って父は本を受け取りつつ、一つ嬉しそうに膝を叩いて、いそいそと部屋に置かれた本棚へと向かっていった。
出版関係で仕事をしているだけあって、父は読書家であり、蔵書家であった。
仕事関連の資料を保管する書庫もあるし、十畳ほどのこの部屋も、壁は全て天井まで届く本棚で埋められ、部屋の隅に置かれた父の仕事机は何十冊もの本が積み上げられている。しかも新旧問わず、学術書から官能小説までジャンルレスで所蔵しており、普段図書館を利用しているが、ちょっとした本ならば父に借りた方が早かったりする。
「あれは貸したから…今度は」
火鉢で手を暖めながら、本棚の前で嬉々として本を選ぶ父の後姿に目をやる。
中学に上がり、読書の楽しみに目覚めて以来、こうして度々父におすすめの本を見繕ってもらうことがあるのだが、それを父は大層喜んでくれていた。「勉強が疎かにならないよう、ほどほどにしておいてくださいね。」と母から釘を刺されているそうなのだが、どこ吹く風と父は咲が求めればそれに見合った本を紹介してくれる。今や読書は父ととるコミュニケーションの大事な一つといっても過言ではない。
「よしよし。今回はこれくらいでいいかな。」
そう言って戻ってきた父の手には五、六冊の本が抱えられていた。
「まずはこれ、主人公とヴァンパイアのヒロインが紆余曲折あって結ばれる小説なんだが…」
「この作者ってアブノーマルって言うか被虐性癖の作品が主だったものって友だちに聞いたことがあるけど、これもそうなの?」
「そう、普段はマゾヒストな主人公とそれに応える魔物娘の関係をじっくりと描くことで有名な先生なんだが、これは珍しくマゾッ気がほとんどない主人公で、実に爽やかで王道な展開で進んでいくものなんだ。障害を手に手をとって乗り越えていくところなんかは実に感動的でいい。まあこの先生のファンたちからは、先生独自の特色が薄いなんて言う人もいるけれど、父さんは好きなんだ、この小説。」
「ふうん。」
「だから是非読んでみておくれ。」
「分かった。読んでみるね。」
それからしばらく父のお勧めの本や前回借りた本の感想を言ったり聞いたりして、父と過ごす楽しい時間はゆっくりと過ぎていった。
………………
「そういえばちょっと聞いてみたことがあるんだけど…」
本談議に一段落が付き、お茶でも飲もうかと父が急須に手を伸ばすのをぼんやりと眺めつつ長年気になっていたことを父に質問してみることにした。
「うん?なんだい。」
「父さんたちの部屋ってさ、暖房ってこの火鉢だけなの?」
「そうだね、この火鉢だけだねえ。」
そう言って急須にお湯を入れ、鉄瓶を五徳の上に静かに置いた後、優しい手
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