前篇

匂いが、した。
紅葉が終わりを迎え、風が一層冷たくなった冬の山の中に匂いたつそれは、まるで春が訪れ力強くその命を芽吹かせる木々が放つような、むせ返るほど生命力に溢れた香りだった。

体の芯が熱くなるのを感じる。
荒く吐き出される息は白く、肌に触れる空気はひんやりと冷たい。だがそれを忘れさせるほど、自分の臓腑が滾っているのを自覚する。

震える気持ちを抑え、長めの舌でペロリと鼻先を舐める。
水気を帯び、さらに敏感になった嗅覚がその芳香を放つ存在の在りかを教えてくれる。どうやら思った以上に遠くではないらしい。

その瞬間、身体は動き出す。
大地を蹴り、宙を跳ね、信じられない速度で躍動する。まるで仏舎利を取り戻す韋駄天のように、全ての神経をその方向に向けてただただ森を走り抜ける。

全ては己の欲を満たすために。






………………………………………






「聞いた話だと、こんなに時間はかからないはずなんだがなあ…」
三木誠二郎は、軽く息を乱しながらあたりを見回した。
目に映るのは長年人の手が入っていない、厳しい生存競争を繰り返して形成された、低木が少なく日の光のあまり届かない大きな常緑樹が生える鬱蒼とした森。耳に聞こえてくるのは微かな風で木々の枝が揺れる音や長閑な野鳥の声ばかり。誠二郎は現在、地元の人間もそう頻繁に足を踏み入れることのない山の中にいる。登山用の履き慣れたブーツを履き、快適性と利便性を併せ持つ冬用の登山服を身に着け、熊除けの鈴が付いた大きな荷物を背負うその姿はどう見ても登山に慣れ、冬の山を楽しむ登山者にしか見えないが、誠二郎の目的はただ山を登ることだけではない。
「今頃は誰もいない温泉を堪能しているはずだってのに。」
この山にあるという秘湯を楽しむことが誠二郎の一番の目的だ。
わざわざ厳しい山道を時間をかけて登り、それほど整備されてもいない温泉に入りに行くことにそこまで魅力があるのかと、懐疑的である誠二郎が秘湯巡りを趣味とする友人に説得され、近場にある温泉に浸かりに行ったのがまだ学生だった数年前のこと。元々宿泊施設が併設されているようなきちんと整備された温泉が好きだったのだが、地元の人間や知る人しか訪れない、大自然に囲まれた中でつかる温泉は格別だった。遮るものがなく、視界のどこにも人工物がない中で入る解放感に溢れた温泉は、それまでにはない魅力を誠二郎に教えてくれた。そして同時に秘湯に浸かっていると、日頃の慌ただしさやわずらわしさ、そういった感情全てを温泉が溶かしていくような感覚を感じずにはいられなかった。そうして初めて秘湯に入り、すぐさまその魅力に取りつかれた誠二郎は、友人や同好の士と、社会人となってからは多くも少なくもない休日に一人で各地の秘湯に廻るようになったのだった。

そんな誠二郎が休日を利用しこの山に入ったのは午前八時。
この山に入山する前に話した、地元に住み何度もその秘湯に通っているという老人の話では一時間もあれば着くらしいのだが、いまだにたどり着くことはなく、既に時計の針は十時を大きく過ぎようとしている。往復で三時間を見積り、たっぷり温泉を楽しんだ後麓で何か美味しいものでも食べようかと思っていた誠二郎の計画はもろくも崩れ去ろうとしていた。
「しょうがない…遭難するわけにもいかないし、諦めて戻るとするか。」
大きくため息を吐き出し、ポケットからコンパスを取り出す。
何とも悔しいことではあるが、一人で馴染みのない山を歩く秘湯巡りではこういうことはよくあることだった。秘湯に浸かるのは楽しみであるが、そのために命を捨てるわけにも、自分を探すために派遣される救助隊の方々に迷惑をかけるわけにもいかない。冬の山はあっという間に暮れ、暗闇に包まれた山は容赦なく命の危機を突き付けてくる。そうなる前にちゃんと判断しなければいけない。後ろ髪をひかれる思いだがぐっとこらえ、背負っていた荷物をおろし地図を取り出す。そしておおよそ自分のいる位置を頭に入れつつ手にしたコンパスで方角を確認していたその時―――

突然、野鳥がけたたましく警戒の声を上げ始めた。
それも一羽二羽などではない、今まで気配を隠していた鳥たちが一斉に声を上げ始めたようだ。聞いたことのないような甲高く大きな鳴き声が山々に木霊し、あたり一帯に緊張感が走る。それなりに多く山に足を踏み入れている誠二郎だが、こんなことに遭遇したことは初めてだった。その異様な雰囲気にのまれ、咄嗟に行動もできず地図とコンパスを持ったまま呆然と立ち尽くす誠二郎がやっと我に返ると同時に漆黒に包まれた何かが、突然目の前に降ってきた。

「な、なんだ!?」
「………お前、か。」
頭上を覆う木の枝を踏み折り地面に着陸したそれは、ゆっくりとこちらに体を向ける。
目の前に現れたのは一人の女性、そ
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4]
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33