後篇

「………。」
崇は妻の言葉を聞き、たっぷり数分間は呆然としていた。
というのも、業という言葉があまりにも浮世離れした言葉だったからだ。献身的で、誰よりも優しく自分に接してくれる彼女が言ったことが拍車をかけていたこともあり、とにかくその言葉を飲み込むのに時間がかかってしまった。それでもなんとか理解すると途端になぜ彼女がそんな言葉を言ったのかという疑問が噴出する。美嘉は無暗に人を混乱させるような言動をする性格ではないことを、崇は誰よりも知っている。だからこそ、業という言葉は彼女が本心から言っている言葉に間違いないのだろう。しかし彼女の言葉が本心のものだとしても、その意味が分からない。
「ね、ねえ…美嘉。」
「………はい。」
彼女の言葉の真意を探るべく、崇は質問をしてみる。
「その、僕が馬鹿だからなのかもしれないけれど…何故枝毛と業って言葉が結びつくのかが分からないんだ。」
「………。」
「だから、さ。その理由を僕に教えてくれないか?」
「…………分かりました。」
崇の言葉を聞いた美嘉は、少しの間俯き思案した。
その顔は今まで見たことないほど悲しそうな表情で、崇はすぐにでも声をかけたい欲求にかられたが、妻が静かに語り始めたので口をつぐみ、彼女の話を聞くことにした。


「前にも言いましたが…髪の毛というものは本当に繊細なものなのです。持ち主の体調、感情、ストレスやショックで簡単に傷んでしまいます。」
そういって妻は沢山生えた枝毛をそっと撫でた。
「それは私たち毛娼妓の髪の毛だって一緒。その昔、旦那様と結ばれるその少し前のことですが、私が旦那様に片思いしているときなど、ちょっとしたことで一喜一憂してしまいよく髪の毛が傷んでしまったものです。あの時もよく、こんな風に枝毛ができました。」
昔の思い出を、少しだけ楽しげに妻は話す。
しかしだからといって崇はその話をそうですかと聞き流すわけにはいかなかった。というのも彼女の話を聞く限り、枝毛の原因は彼女の感情が大きく関係していることが分かる。しかもその感情は負のもの。そして昨日まで枝毛がなかったということは…

「今日、なにかあった…いや、僕が何かしてしまったのか?」
恐る恐る、崇は自分の推測を口にする。
「………旦那様。」
すると美嘉は質問には答えず、一歩こちらに向かって踏み出したかと思うとトーンを下げた声で尋ねてきた。

「旦那様の質問にお答えするためにも一つお聞きしたいのですが…今日の午後、お仕事されている時に……まだ独り身の毛娼妓とお会いしませんでしたか?」

「え?」
妻の言葉に、今日何度目なのか分からいがぽかんとしてしまった。
なぜなら彼女の言葉が、事実だったからだ。確かに今日の午後、出向いた得意先で受付をしていた女性が毛娼妓で、今週から受付を始めたらしく、ぎこちないながらもきちんと対応をしてくれた。なんでも彼女は独身らしく一緒にいたこれまた独身の同僚がその人と話すきっかけが欲しかったのか、崇の妻が毛娼妓であることを伝えたところ、思わず話が弾み色々と話をしてしまった。といってもこちらが美嘉とののろけ話を一方的にしてしまったのではあるが。

「なんで、それを知って…見ていたの?」
だけれども妻はなぜそれを知っているのだろう。
その会社はここから特別に遠いというわけではないから妻がそこに行くことだってできるし、受付で話していたので外から見ることもできないわけではない。それでも妻には今日どこへ行くのかを言っていないのだから、後でもつけていない限りその場を見るなんてことはできないだろう。しかし一日中そんなことをすれば家事をすることなんてできないはずだし、今日もそうだったが妻はいつも自分が帰宅して玄関を開けると座って出迎えてくれるのだが、はたしてそんなことができるのだろうか。
「いいえ、見てはいません。…ただ」
すると美嘉は首を横に振りつつ、崇の左手にそっと手をのばした。
「私の髪の毛で感じていたのです。」

美嘉に言われて自分の左手、正確にいうと左手の薬指に視線を向けた。
そこには二人で選んだプラチナの結婚指輪と共に、美嘉の髪の毛をより合わせた作られたリングがはめられている。髪の毛を添い遂げる男性に送るというのが彼女たち毛娼妓の習慣であるらしく、妻の美嘉は結婚の約束を交わしたその晩に、常に私の髪の毛を身に着けていてほしいということでこのミサンガのようなリングをくれたのだった。崇は彼女からそれをもらい、随分と喜んだ。自分が髪の毛をもらえたということは彼女の配偶者として受け入れられた証でもあるし、常に愛しい人と一緒にいられるとそう思わずにはいられなかった。そのころは美嘉のことを思い出してはそっとリングを撫でてふやけた笑みを浮かべ、周りに何度も冷やかされたものだった。

「髪の毛って…これのこと
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