シュリ、シュリ
静かな室内に刃物を研ぐ音が響く。
人が訪れることない山の中腹に建てられた小屋の中で、毛利佳也子は先日自分が作り出した刃物たちを丹念に仕上げている。佳也子が立っている流し台は上段、中段、下段と分けられていて、それぞれに仕上げ用である触れば手に吸い付くような目の細かい最高級の天然砥石、中研ぎ用の人造中砥、大きな刃こぼれを直したりするときに使う非常に目の粗い荒砥が井戸からくみ上げられた冷たい水に沈められていた。
佳也子は今、薄刃を中砥で研いでいる。
刃物を研ぐという行為は、実に難しい。赤く蕩ける素直な鉄と違って、冷たくわがままな刃物たちを仕上げるのは大変だ。しかも研ぐ刃物に合わせた研ぎ方、例えば鉋や日本刀、包丁と刃物それぞれに研ぎ方があるし、使用方法、使用者によって研ぎ方が変わってくる。木材を加工するなら刃先の角度を立てるし、布などを裁つ場合には角度を寝かせて研ぎ出し、包丁などであれば使用者の利き手によって両刃である左右の刃先の角度を調整する。人間の職業に研ぎ師というものがあるのがうなずけるほど繊細で、大切な作業だ。一般的にサイクロプスの作り出す刃物は人間のそれに比べて非常に優れているといわれるが、刃物であることは変わりない。しっかりと大事に仕上げをしてあげなければ、いい刃物にはなりえない。
「…………」
薄刃についた砥糞を水で落とし、窓から差し込む光に刃物を翳してゆっくりと刃面を確認する。金床や金槌などを使い、刃がまっすぐになるよう丁寧に調整したかいもあって、光を反射する刃先までしっかりと研ぎだされ、切れ味もよさそうだ。自分の作業にある程度満足しつつ、あとは天然砥で数度優しくなでるように仕上げをしてあげればいいなと頭の中で次の作業の算段をつけていたその時…
「佳也子ちゃ〜ん、いるかしら?」
玄関の戸を叩く音と、名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
佳也子は乾いた布で薄刃についた水分を丁寧に拭き取り、さび防止のために少量の椿油をしみこませている綿で鋼の表面を拭く。そして服が汚れないようにかけていた前掛けを外し急いで玄関へと向かい、扉の鍵を開けた。
「………涼子さん。」
「こんにちは。お久しぶりね。元気にしていたかしら?」
玄関には、予想通りの人物が立っていた。
畦森涼子―――このあたりの広大な土地を所有する畦森家の当主であり、現在佳也子が住んでいるこの小屋を貸してくれている方だ。山深い場所だというのに普段と変わらず黒のロングドレスを纏い、その身から近寄りがたい人外の、魔物娘の中でも貴族と称されるヴァンパイアの気高さを発する彼女は、対照的に人懐っこい笑みを向けてくれる。
「…こんにちは。」
「あら、そんなに畏まらないで。私と佳也子ちゃんの仲じゃない。」
「…いえ。………涼子さんは、私の恩人ですから。」
佳也子が小さな声でそういうと、涼子は右手で手を振りつつ大げさねと言って笑った。
涼子は笑うが、目の前で優しく畦森涼子が恩人であることは変わりない。
その出会いは数年前に遡る。
涼子と初めて出会った時、佳也子は途方に暮れていた。母親と初めて喧嘩し、着の身着のままに家を飛び出したはいいが、交友関係の乏しい佳也子にとって世間はあまりにも広すぎる。それでもとにかく母から離れたいと思い、最寄りの駅から行先も見ずに電車に飛び乗った。しかし乗ったはいいものの、これから自分がどうしていけばいいのか全く分からない。冷静になっていく頭と、確実に離れていく故郷のギャップに、佳也子は立ち尽くすほかなかった。
「ねえ、あなた。どうしたの?」
そんな計画性の全くない行動の末たどり着いた、電車の終着駅で呆然としていると、突然声をかけられた。
「…………。」
人前に姿を現すことが少ないサイクロプスが一人でいることに奇異な目を向けられることが嫌でたまらず、広い駅の片隅で壁を向いて立ち尽くしていた佳也子は最初、自分に話しかけているとは思わなかった。だから振り返ることもなく隅で立ち尽くしていると突然肩を叩かれた。
「あなたのことよ、そんな隅の方に立ってどうしたの?」
「…………え?」
ようやく自分に話しかけられたのだと気が付き振り返ると、そこには今日と同じく黒のロングドレスを着た涼子が立っていた。勿論彼女と面識はないし、なぜ自分に話しかけてきたのかその意図がわからず端正な涼子の顔を凝視していると、涼子は驚いたように目を剥いた。
「あなた、ひどく疲れているみたいじゃない…。一人なの?いったいどうしてここにいるの?」
よほど、その時の自分は情けない顔をしていたのだと思う。
初対面であるのに加え表情が乏しいといわれるサイクロプスの顔を見て、こんなに心配してくれたというのはそうだったに間違いない。涼子はみるみるその顔にこちらを心配する表情を浮かべて質
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