「佳也子。」
母の声がする。
「………。」
「ねえ、佳也子。」
私の名前を呼ぶ母の声は、穏やかで優しい。
それなのに、私の心はその声を聴くたびにひどく荒んでしまう。
「…………何?」
私はその気持ちを隠すことなく、ぶっきらぼうに返事をする。
しかし、母は私の態度を気にすることなく変わらず慈愛の気持ちをたっぷりと込めた柔らかな声を私に投げかけてくる。
「佳也子。もし何か悩んでいるのなら…遠慮なんかしないでお母さんに相談してちょうだい。お母さんにできることならなんでも力になるわ…。」
そんな母の優しさが
私をもっとも苛立たせる。
「…………。」
口を開いてしまえば思いつくだけの罵詈雑言を最愛の母親に向けてしまいそうで、私は必死に口をつぐんで下を向くことしかできなかった。
「佳也子…どうしたっていうの?」
すると母は、本当に悲しそうな表情を浮かべ私の名前を呼ぶ。
その姿は、私と似ても似つかない…実に綺麗で美しく、母性にあふれたものだった。憂いに満ちた表情を浮かべる可憐な母の顔を見ていると無性に腹が立った。憎々しかった。
「母さんなんかに、私の気持ちがわかるはずない。父さんの愛を一身に受けている母さんなんかには!!」
私はついに耐えられず感情を爆発させる。
こんなにも声を荒げたのはいつ以来のことだろう、最後に顔の表情筋をこんなにも釣り上げたのはいつのことだろう。
「…佳也子。」
母は私の言葉から何かを察したのか、私の肩をつかみ視線を合わせて諭すように言う。
「大丈夫よ、佳也子。きっと佳也子を心の底から愛してくれる男の人と出会うことができる。絶対にできるからそんなこと言わないで。」
優しい声で囁き、母親の愛をたっぷりと湛えた…“双眸”が私を見つめる。
しかし、私のささくれだった心には母の優しさは届かない。
むしろ逆に体の奥でじくじくとくすぶる怒りを再燃させるだけ。
だから私は、冷え切った声色と無表情で母に言い放つ。
「私………母さんなんて大っ嫌い。」
母の顔が、ゆっくりと悲しみに歪んでいく。
その顔は、実に美しかった。
………………………………………
目が、覚めた。
またいつもの夢だった。
初めて母と喧嘩してしまった時の夢。
これを機に家を飛び出し、それ以来見ていない母の顔。
忘れたいのに、頻繁に見ている昔の記憶。
夢の中で見る母の顔はいつも悲しそうな顔をしている。
いつもと寸分の違いもない、嫌な夢だ。
なんとか上半身を起き上がらせる。
動悸がひどく、全身から汗が噴き出す。
喉もカラカラに乾きまともに声すら出せない。
私は幽鬼のようにのっそりと立ち上がり、台所へと向かう。
月明りで仄かに照らされる台所にたどり着き、蛇口をひねってコップに水をためる。
そしてそれを一息に飲み干す。
井戸から引いている水は、夏でも冷たい。
胃に届いたその冷たさがようやく私を落ち着かせる。
「はあ…………。」
重々しい溜息をつき、ゆっくりと顔を上げる。
すると闇を湛え鏡のように月光を反射する台所の窓に、醜い魔物娘が映し出される。
温もりを感じさせない真っ青な肌。
額から生える角。
そして何よりも醜い
顔の真ん中に浮かぶぎょろりとした大きな一つの目。
夢の中の母親はあんなにも美しいのに。
姉や妹はみんな母親と同じように美しいというのに。
なぜ、自分はこんなに醜いのだろう。
そう思うとみるみる顔色が悪くなり、表情が硬くなってしまう。
窓に映る魔物娘はより一層醜いものに変わっていく。
毛利佳也子はまるで目が覚めた時と同じような気分の悪さを覚え、力なく視線をそらし大きなため息を一つついたのだった。
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