後篇

西洋クラシックのゆったりとした旋律が室内に流れている。
その部屋は朋子の部屋とはまた違った煩雑さを誇っていた。大きな本棚が三つ、そしてそこから大量の本や資料が溢れているのは同じだが、朋子の部屋にあるような妖しげで不可思議なものは一切ない。その代り部屋に置かれた硝子戸のついた大きな棚には、沢山の植物標本が所狭しと並んでいる。色とりどりの花々の標本があるせいか、朋子の部屋よりもぐっと有機的な空気を感じる事が出来る。

牧野満はそんな自室で仕事をしていた。
目の前にある机の上には沢山の花や植物が並べられていて、その一つ一つに名前や採取した場所、時刻などが丁寧に記載されている。それらは全て自分が採取したものだ。普段仕事をする際に使っているその机の奥には音楽を流す為のオーディオとコーヒーポットが置かれている。どれも長年愛用している品だ。
「ここら辺はやはり分布が偏る、な。何か要因があるのかな?」
冷めきったコーヒーを啜りつつ、ぼんやりと独り言を呟く。
満は現在、准教授として地元の大学で研究をしている。専攻は植物の生活様式を調べ、分布や外界との関係について研究する生態学と呼ばれる分野だ。特にこのジパングに数多く存在する里山とよばれる自然形態を調べることに力を入れている。目の前に置かれている多くの標本たちもその仕事における大切な資料だ。

満は幼いころより故郷の里山で過ごす事が多かった。
友達たちがゲームなどに熱中する中、一人山に行っては日が暮れるまで自然と戯れた。季節ごとに咲く美しい花々、独特のフォルムをした果実や葉を見るのが何より好きだった。そして自然に対する好奇心や親しみは一過性のものではなく、いつまでたっても消えることはなかった。だから、大学へ進学する際に迷わずこの世界へ飛び込んだ。そして運よく大学院卒業時に助手として大学に残る事ができ、今では准教授になるまでになっていた



コンコン
「満さん、いる?」
コーヒーの苦みで思考をクリアにして、今ぶつかっている問題に取り組もうとしたその時―――軽いノックと共に妻の声が聞こえてきた。
「ああ、いるよ。」
「入っていい?」
「どうぞ〜。」
妻に返事をしつつ、手をのばしてオーディオを止める。どうも妻はクラシックがあまり好きではないらしい。何事も妻と一緒に楽しみたいものだが、こういう趣味の世界は擦れ違いが起こるのも仕方がないのかもしれない。
「失礼するわ。」
音楽が止むと同時に妻が入ってくる。いつものように黒縁眼鏡をかけ、黒のワンピースの上に白衣を羽織っている。彼女がしている恰好は…完全に自分の趣味を反映したものだ。
「(…やっぱり何度見ても…綺麗だ。)」
何事も平凡で特徴の無い自分には不釣り合いな美貌を備えた彼女と、結婚して以来毎日顔を合わせているが、今でもふとした時に見惚れてしまう時がある。

そんな彼女とは、数年前にとある山の麓で出会った。
その山はこのジパングで一番の標高を誇っている山で、その周辺には高山植物を始めとして独自の生態系が確認されている。満はそこを中心に研究をしている研究仲間から合同調査の誘いを受け訪れていた。その山の北部に広がる針葉樹林、苔、キノコなどの採取や調査が出来るとあって、とても心躍ったのを今でも覚えている。


「ねえ、そこのあなた。」
「え?」
現地で友人や今回の参加者と目的地までむかい、集合時間までそれぞれに別れ自由に調査をしている時だった。服が汚れるのも厭わず、這い蹲るようになりながら夢中になって群生していた苔を観察していた満は突然声をかけられて飛び上がるほど吃驚した。なぜならその声が女性のものだったからだ。今日の合同調査に女性の参加者はいない。
「ふふ、そんなに驚かなくても。」
「ああ、すみません。って…えぇ!?」
慌てて声のする方に振り向き、自分に話しかけた女性がボロボロのマントだけを羽織った半裸の状態で立っているのを見て、二度吃驚した。それまで周りが恋を謳歌する中研究に没頭し、「あいつの恋人は植物だ」と陰で言われるような生活を送っていた満は、彼女が動く度に見え隠れする白く美しい肌や胸が視線に入っただけで、顔が真っ赤になり身動きが取れなくなってしまった。はっきりいってそこら辺の中高生より女性に対する免疫がない自信があった。

そんな様子を楽しそうにながめ、ゆっくりとこちらに近づきながら彼女は質問してきた。
「可愛らしい反応。あなたは今なにをしているの?」
「…このあたりの研究を、その、友人と一緒に…」
「まあ、研究をしているのですか?」
「ええ…大学で植物を…」
「素敵。成程…それで先程の様子も納得いきます。」
「はあ…」
「好奇心が強くて…研究熱心なんですね。」
「……まあ。」
「…まさに好都合。」
「…?」
突然目の前に現れた彼女は、こちらを値踏
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