「勲、今帰ったぞ〜。」
玄関から妻の元気な声が聞こえてくる。
描きかけの、完全に行き詰った絵にこれ幸いと別れを告げて玄関に向かう。玄関には一人の女性が大柄な体を窮屈そうに屈めながら靴を脱いでいた。
「お帰り、あやめさん。」
「おう。今日も無事に帰って来たぜ!」
靴を片づけ、女は男に向き合う。目つきが少し険しくやや強面だが、愛しい夫の姿を確認して安心したのか、柔らかい笑顔が浮かぶ。
「お疲れ様。お風呂も食事の準備も出来ているけどどうする?」
「んあ…じゃあ今日は汗かいたから先に風呂にすっか。」
「じゃあ、その間に食事の準備をしておくから入ってきてね。」
「あ?」
「ん?」
「お前も俺と一緒に入るんだよ!!」
「!?」
「疲れて帰って来た妻の背中を流してやるくらいの甲斐性を見せやがれ♪がははは。」
「そ、そんなあああ!!」
むんずと首根っこを分厚い手でつかまれ、彼女の夫である宮本勲はずるずると風呂場へと引きずられて行く。
妻の豪快な笑い声と夫の弱々しい声が静かな玄関に木霊した。
「ふん、ふっふ、ふんふん、ふ〜ん♪」
「痒いところはありませんか、奥様。」
「ねえよ、極楽だ♪このまま頼むぜ〜旦那様。」
檜の香る広くは無いが狭くもない風呂場に鼻歌が反響する。
ご機嫌に鼻歌を歌う彼女の名前は宮本あやめ。勲の妻だ。職業は宮大工で中世より続く宮本組の棟梁でもある。神社仏閣の修理・建造を主に仕事とし、確かな腕と誠実な人となりは同僚たちからの信頼も篤い。
一方、あやめの広く筋肉質な背中を洗っている勲は画家として生計を立てている。画家といっても専ら小説などの表紙や挿絵ばかりだがありがたいことに仕事や注文は途切れずに続いている。長年にわたってわざわざ勲を指名してくれる馴染みの小説家が何人かいるのは幸せな事だ。
「そういや今日の晩はなんだい?」
「あやめさんが食べたいって言ってたから餃子にしてみたよ。」
「勿論、肉たっぷりだよな?」
「うん。いつも通り。」
「おっしゃ!!」
「こら、背中を洗ってるんだから大人しくしてて。」
「お、悪いな。つい嬉しくってよ♪」
現在、大工として朝早くから忙しく現場を行き来するあやめと違い職業柄家に籠りがちな勲が主に家事全般を担当している。元々料理や掃除も苦にしない性格だったから特に問題もなく現在の生活スタイルに落ち着いた。
そんな二人が出会ったのは一年前。
馴染みの小説家に挿絵を頼まれた勲は、作中に登場する宮大工を描くため宮本組に取材に訪れた。その際、工房内の案内や仕事の説明をしたのがあやめだった。最初に出会った時、目つきがするどく人を寄せ付けないような雰囲気に緊張したのは今となっては笑い話だ。
鉋を一かけするごとに匂い立つ木の香り、大工の大切な道具を錆から守るツバキ油特有の匂いが鼻をつく。大小様々なのこぎり。丁寧に手入れされ研ぎ澄まされた鉋や鑿、薄刃の鋼の美しさ。さしがねや墨つぼのような大工たちの正確な仕事を支える道具たち。大工たちがそれらの工具を使うと、魔法のように木材は形を変え、時には非常に細やかな装飾に、時には強靭な一本の柱へと姿を変えた。
独特の美しさと空気を醸し出すその世界はすぐに勲を魅了した。勲は時間を忘れて写生や資料用の写真を撮り続け、気になることは熱心にあやめに質問した。自分の職業に勲が強い関心と興味を示した事が嬉しかったのか、あやめは質問に丁寧に答えてくれ、実際に道具を使用してみせたりしてくれた。その度に好奇心が刺激され、知識欲が満たされていった。
そんな楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、勲が帰宅する時間になった。どんな質問にも懇切丁寧に答えてくれたあやめに何かお礼をしたいと考え、自分に出来ることは絵を描く事しかないと思い至り、勲はこっそりと彼女の横顔を描いた。側頭部からのぞくやや小さめな獣の耳、美しい紺色の髪、眩しいくらいに真っ直ぐな金色の瞳、きめ細やかな白い肌、健康的な桃色をした艶やかな唇。そして熱心に説明している際に口を開くと覗く八重歯がとてもキュートだった。
「これを、俺に?」
満足な画材があるわけでは無かったが、自分の持てる技術と感謝の気持ちを込めてスケッチブックに彼女の似顔絵を描いた。絵を渡した瞬間、彼女はとても驚いた様子で暫くの間口をつぐんだ。勲は無言でじっと絵を睨みつけるように見つめる彼女は怒っていると勘違いした。ひょっとすると、許可なく描かれた事が不快だったのかと思い急いで頭を下げると両肩をがっしりと掴まれ上体を起こされる。
「よし、俺のところへ婿に来い。」
だが、てっきりひっぱたかれるくらいの事態を想像していた勲にかけられた言葉は予想すらしていなかった―――プロポーズの言葉だった。
後から聞いた話だが、あやめは勲が贈った絵が男性から貰った初めての贈り物だったらしく
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