あるところに、一匹の野良猫がいました。
その猫に名前はありませんが、どうやら雌のようです。
茶と白の混じった毛色が特徴で、身体はそれほど大きくありません。
彼女は、草がぼうぼうと生えた空き地で、のんびりと寛いでいました。
そこは彼女の生まれた場所でもあります。
彼女の両親は、この場所で5匹の子供を儲けました。
2番目に生まれたのが彼女です。唯一の女の子でした。
そのせいか、父親は彼女を大層大事に育て上げました。
彼女が生を受けて、約1年後。
兄弟達は各々、どこか知らない場所へと旅立っていきました。
巣立ちの時です。猫は大人になれば、自分のテリトリーを探すのです。
親にとって、子供たちとの別れは悲しいものでしたが、笑顔で見送りました。
しかし、彼女だけは、生まれ故郷を離れませんでした。
なんてことはない話です。彼女は面倒臭がりだったからです。
そんな彼女を、両親は、仕方がない子だとは思いながらも、甘やかしました。
理由は何にせよ、愛しい娘が一緒に居てくれるのが、嬉しかったのです。
ですが、それでも別れの瞬間は訪れます。
寿命です。彼女の大好きな父と母にも、その時が迫っていました。
両親は己が死期を悟り、彼女には告げず、そっと巣を離れました。
彼女は、どうして両親がいなくなってしまったのか、今でも分かりません。
ただ、自分にこの巣を譲ってくれたことだけは、薄々理解していました。
両親の好意に、存分に甘えようと…また、大切にしようと、彼女は誓いました。
そういった道のりを歩んで…いえ、寝っ転がって、彼女は今、ここに居るのです。
…ぴゅうっ…と、一陣の風が通り抜けました。
心地良さそうに目を細める彼女。気楽なものです。
日がな一日、彼女のすることといえば決まっています。
寝て、起きて、散歩に出て、餌を探して、食べて、帰って、また寝る…。
これだけです。苦労らしい苦労はありません。自由気侭です。
彼女はある意味、もっとも猫らしい生活を満喫していました。
そして、今日もそろそろ散歩に行こうと、彼女が立ち上がった…その時。
ふと、鋭敏な鼻が、近くに嗅ぎ慣れた匂いがあることを感じ取りました。
人間の匂いです。知った人間の匂い。
彼女は屈んで、草むらに身を隠しました。彼が来たからです。
彼女の視線の先には…少年がいました。
恐らく、この町に住む子供です。年端もいかない男の子です。
彼は、誰かの名前を呼びながら、草茂る空き地に入ってきました。
彼が呼ぶ名前…タマというのは、彼女のことです。
もちろん、彼が勝手に付けた名前であって、彼女に名前はありません。
彼女から見れば、何を勝手に名付けているんだと、迷惑千万なものでした。
そんなことを知る由もない彼は、やっと彼女を見つけました。
ニコニコと笑顔を浮かべて、近くへと駆け寄っていきます。
彼女はいつでも逃げられるよう、筋肉を緊張させていましたが、
彼は彼女から少し離れた位置で止まり、腰を下ろしました。
前に、近付き過ぎて逃げられてしまったことを、覚えていたのです。
睨む彼女を見つめながら、彼はその場に何かを置きました。
パン屑です。少年の片手に持てるほどのパン屑。
彼はこの行為を、3日ほど前から続けています。
空き地に佇む彼女を見つけたのも3日前で、それ以降、ずっとです。
いきつけのパン屋さんに頼んで、パン屑を貰っては、彼女の下へ持ってきました。
何故かといえば、彼は彼女に一目惚れしたからです。
可愛い猫に懐かれたいという思いから、毎日餌を運んでいるのです。
それは非常に子供らしい、無邪気な想いでありました。
当然、彼女にとって、それは彼の勝手な想いに過ぎません。
彼が帰った後も、そのパン屑に手を付けようとはしませんでした。
いつしか野鳥が群がり、綺麗に食べてしまうのを、横目で見ているだけです。
が、野鳥の食事は、彼女にとって厄介なことでもありました。
パン屑が無くなったのを見て、彼が勘違いしたからです。
そのせいで、彼は今日まで、諦めるどころか…先程見た通り、
ウキウキと胸を弾ませてパン屑を運んでくるのです。
基本、興味の無いことには無関心な彼女ですが、
ここまでしつこいと、さすがに彼のことを考えざるをえませんでした。
一度引っ掻いてやろうかとも思いましたが、彼女は面倒臭がりです。
彼が襲い掛かってでもこない限り、面倒事を起こす気力が湧きません。
それに、彼が巣に置いていくのは、毒ではなく、ご飯です。
野鳥の様子を見て、害のある食べ物ではないと理解していました。
もしかしたら、プレゼントのつもりかもしれない…と、彼女は思いました。
しかし、彼女はやはり、どんな場面でも猫です。
次第に考えるのが面倒になって、うとうとと眠りについてしまいました。
優しいそよ風
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