傍にいることで、よく見えるものもあるけれど。
側にいることで、見落としてしまうものもあって。
「主様、お茶が入りました」
空を覆うはイワシ雲。鳥も寄り添う、木枯らしの季節。
僕、ソラ・トォンは、今日という日も書類の山の中で過ごしていた。
橋の建設、水道の整備、荒地の開拓、商会との提携、王様への謁見…。
どれもこれも、僕の手に余るものばかりだ。正直言って、ちんぷんかんぷん。
しかし、領主として、僕はこの一枚一枚に真摯に向き合う必要があった。
トォン家は、ここら一帯の土地…いくつかの町を含め、その所有権を有する大地主。
その中で、誰かが何かをするとなった場合、僕が知らんぷりをしているワケにはいかないのだ。
「先日、上等な茶葉を頂きまして。お口に合うとよいのですが」
鼻先をくすぐる、ハーブティーの香り。甘いお菓子の匂いも。
その誘惑に釣られ、僕は一旦、書類から目を離し、
匂いの元…部屋の入り口に立つ彼女へと視線を向けた。
その女性は、カップとポット、それとお菓子を乗せたトレイを手に。
僕の視線に気付くと、にこりと微笑みを返しながら、部屋の中へと足を踏み入れた。
石作りの床の上を、静々と、音も立てずに歩く彼女。一歩々々が、気品で満ちている。
ふわりと浮き上がる、腰まで伸びた髪は、艶々しく、手入れが行き届いていることが窺える。
先に言っておくが、彼女はメイドではない。勿論、どこぞのお嬢様でもない。
だが、その立ち振る舞いは、まるで一国の姫のように礼節正しく、それでいて厭味を感じさせない。
驕りなく、かつ、控え過ぎず。自身の立ち位置を理解し、その中で最大限の礼儀を尽くす。
見た目麗しく、女性としての魅力に溢れていて。更に気立ても良く、人間性も申し分ない。
それが彼女だ。何時如何なる時も。まるで、世の男性の夢を形にしたかのような存在。
彼女の名は、クー・レトリバーシ。
『魔物』と呼ばれる存在にして、僕のお側付きだ。
「お菓子は、主様の好きなドーナツですよ」
そう言って、彼女は変わらぬ笑顔を浮かべながら。
書類ひしめく机の上に、本日のティーセットを並べていった。
お茶の時間は、書類漬けの日々に於いて、ささやかな楽しみのひとつ。
椅子から身を乗り出し、僕は先ず、目でそれらを味わい…そして、カップを手に取った。
…あぁ、良い香り。疲れが抜けていくよう。
安らぎを感じながら、一口。瞬間、口の中に、ぱぁっと花畑が広がる。
美味しい。丁度良い温かさ。控えめな甘さと、僅かな苦味のハーモニー。
ドーナツは。二つある輪のうち、チョコレートが塗られた方を手に取り、ぱくり。
やっぱり、美味しい。今にも頬が溶けてしまいそうな、濃厚な甘味。気分は天国。
本当、美味しい。何度も言葉に出しながら、次々に口へと運ぶ。
その様を、満面の笑みで見つめている彼女。気付き、照れ臭さを笑って誤魔化す。
だって、仕様がない。彼女が作ってくれるものは、どれも絶品なのだから。
料理だけじゃない。掃除も、隅々まで行き渡っており、塵ひとつ見つからない。
編み物も得意だし、歌声だって綺麗だ。剣術まで嗜んでいて、おまけに学もある。
まさに完璧。世界中を探しても、彼女以上に出来の良い人物は、そうそういないだろう。
先程、彼女のことを、お側付き…と言ったが。
実を言えば、この家は、領主である僕ではなく、彼女によって成り立っている。
先に述べたように、僕は、この書類に書かれていること…その半分も理解できない。
なので、彼女が代わりに目を通し、改めて僕に確認を取った後、決を下しているのだ。
つまり、お側付きというのは、とりあえずの肩書きに過ぎず。
彼女は…クーは僕にとって、なくてはならないパートナーなのだ。
「うふふっ。お気に召して頂けて、嬉しいです」
目を細め、嬉しそうに笑う彼女。
クーは笑顔上手だ。いつもニコニコしている。
しかし、その顔は、人間のそれとは大分異なる。
見ての通り、彼女は魔物だ。クー・シーと呼ばれる、獣人の魔物。
教団曰く、人間の宿敵であり、一日も早く滅さなければならない存在。
だが、ここはそのような主張を許さぬ、親魔物領。
こうして、彼女が僕の側にいることは、何ら不思議なことじゃない。
それどころか、彼女とは、僕が生まれた頃からの付き合いだ。かれこれ十四年。
幼い僕を残し、愛の世界一周旅行とやらに出た両親よりも、余程長い縁がある。
クーは、僕の幼馴染にして、時には姉代わりとなり、そして頼りになる秘書でもある。
彼女がいなくなってしまえば、僕はたちまち、何もできない一人の子供になってしまうだろう。
「お茶のおかわり、いかがですか?」
そんなことを考えながら、彼女の問い掛けに頷きを返す。
空になったカップに、再び注がれる、夕焼け色のハーブティー。
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