奉仕之心

「―おはようございます、御主人様」

眩い朝日。芝庭に薄く降りた霜がきらきらと輝く、初冬の季。
私…キキの一日は、主の部屋の前で一礼するところから始まります。

部屋に入ると、既に彼は目を覚ましており、窓の外を眺めていました。
何を見ているのでしょうか。気になりますが、私から声を掛けたりはしません。
景色を愉しむ主の妨げをしてはならない、という自制が第一に。
彼の物憂げな横顔をもっと見ていたい、という下心が第二にあるためです。

大丈夫。慌てなくとも、ほら。
私の優しい御主人様は、すぐにこちらへと向き直り、挨拶を返してくれます。
明日で齢15となる、私の御主人様。可愛くて、優しくて、ちょっぴり怖がりな彼。
そんな自慢の御主人様に向かって、私は会釈をし、彼の傍らへと歩み寄りました。

「何をご覧になっていたのですか?」

そう問い掛けると、彼は少し照れたような笑みを浮かべて、外を指しました。
私はその指が差す先を追って見ました…が、特に目立ったものは見当たりません。
銀化粧に染まった世界が、どこまでも果てしなく広がっているばかりです。

「…風邪っぴきな狐が、森から覗いていましたか?」

当てずっぽうな答え。当然ながら、御主人様は首を横に振ります。
その後、二、三度、思い付く答えを述べましたが、ことごとく外れでした。

彼にはいったい、何が見えているのでしょう。
その姿を懸命に掴もうと、私は目を凝らしましたが、やっぱり見えません。
動物? 植物? 太陽? それとも、もっと別の何かでしょうか。

しばし悩んだ末、私はとうとう観念し、御主人様に答えを求めました。
すると、彼は先と同じく、わずかな恥じらいを見せながら、答えを教えてくれました。

「…なるほど。ええ、確かに。ソラ様のおっしゃいます通りです」

その答えは、聞けば、とてもシンプルなものでした。
『カーテンの隙間から見えた景色が、とてもキレイだったから…』。
そう、彼は『世界』を観ていたのです。動物も、植物も、太陽も、全て。
それら全てを含めて、あまりにも綺麗で見惚れていた…と言うのです。

なるほど、なるほど。そうです、ソラ様はそのような御方でした。
広い視野を持って、『それ』を見ることができる御方。彼の長所のひとつです。

そのような慧眼を持つ御主人様だからでしょうか。
私は時に、その突拍子もない言動に振り回されてしまうことがあります。

『―でも、キキの方がもっと…』

不意討ち。彼は突然、思いもよらない言葉を述べました。
外の景色とは対照的な、赤ら顔で。耳の先までまっかっかです。

対して、私は…いえ、言うまでもないでしょう。
私はさりげなく、自身の表情が窺われないよう、彼の背後へと回りました。
急激に速まる鼓動を、そっと手で押さえ、気持ちを落ちつけようとしながら。

しかし、彼には私の反応を窺う余裕など、カケラも無いようでした。
なんでもない、ごめんね…と、慌てて取り繕う様は、いかにも子供らしく。
己が恥を隠すことに精一杯な姿に、私の母性は今にも雄叫びをあげそうでした。

「…御主人様」

コホンと、一呼吸置いて。私は彼に声を掛けました。
瞬間、ビクリと、おばけでも見たかのように跳ねるその身体。

「先日お伝えしました通り、明日は御主人様の15歳の誕生日…」

私よりも頭一つ分小さい御主人様。
出会った当時は、まだハイハイもままならなかったソラ様。
たっちをされて。挨拶を覚えて。自分で着替えられるようになって…。
思い出される、小さい頃の御主人様の姿は、まるで昨日見たかのように鮮明です。

「そちらを迎えます前に、今宵、湯浴みの後、筆卸しの儀がございます」

御主人様にお仕えした15年間。それは私にとって、真珠の輝きを放つ日々でした。
彼の世話をしてほしいと、身寄りのない私を拾ってくださった父君と母君。
御二人は、この身が魔と知っていながら、ソラ様のお傍付きを許して下さいました。

「どうか、先にお休みになってしまうことのなきよう…」

…御主人様が3歳を迎えた年の春。
御二人はソラ様を残して、屋敷を後にしました。
人間と魔物の戦争を止めるために、と。大きな荷物を背負って。

後に父君の書斎を調べたところ、かの御方は魔物の生態を研究されていたようでした。
また、人間と魔物が共生するための、理想的な都市を描いた考案書等も見つかりました。
御二人は世界に平和をもたらすために、ソラ様を私に預け、出ていかれたのです。

「…朝食の準備が済んでおります。御着替えが済みました後、食堂にお越しください」

父君の日記には、母君の魔物化が著しいこと、それに対する悩みも記されていました。
人間の尊厳を守りたいこと。それでいて、愛する者が魔と化そうと、その存在を受け入れたいこと。

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