礼儀作法は、身に淑やかさを宿らせます。
万人を魅了す立ち振る舞い、それが淑女の嗜みです。
「…やってらんねぇ」
繰り返されるお小言に、とうとう音を上げる赤肌の女性。
彼女は手に持っていた箸を放り、ごろんと横になってしまいました。
音を立て、配膳された机の上を転がる一対の棒。ころころ、かつんと。
茶碗にぶつかろうともお構いなし。彼女にとっては、既に些末なことでした。
この言葉遣いの乱暴な女性は、名を愛花…『アイカ』といいます。
見ての通り、人間ではありません。『アカオニ』と呼ばれる、凶悪な妖魔の類です。
ですが、彼女は暴れん坊ではあるものの、人に危害を加えることを良しと思っていません。
その名の通り、心根は愛に満ち溢れ、野に咲く一輪の花のように可憐な女性でありました。
「だいたいよ、こんなん手掴みのが早いんだ。ほれっ」
しかし、御覧の通り、彼女はまるで礼儀というものを知りません。
すぐに横になり、つまみを手元に、尻を
#25620;きながら酒をかっくらうという、
ろくでもない中年のような振る舞いを好むのでした。他人の目など尻目です。
ですから彼女にとっては、このように手掴みで物を食べることなど、ごく当然のことなのです。
「いけません、アイカ様。はしたない…」
ですが、そんな彼女に異を唱えるものがいました。
その者とは、このアイカの傍らに座す女性…『ミーファ』です。
「御召物が乱れてしまいます。さあ、姿勢を正してくださいまし」
ふしだらにも足を広げて寝転がるアイカの身体を、ミーファが起こします。
彼女の細い腕に引き上げられ、ようやくアイカも、やれやれと座り直りました。
着物の乱れを直すように告げながら、枕代わりに折り畳まれた座布団を直すミーファ。
そんな彼女を、アイカはあまり快く思っていませんでした。主に、お小言が過ぎるという面で。
今の食事も、彼女に言われ、いやいや付き合ってやっていること。窮屈な御作法のひとつ。
あるがままを好むアイカにとって、礼儀作法を重んじるミーファは目の上のたんこぶでした。
「では、もう一度。箸はこのようにお持ちくださいませ」
しかし、彼女がアイカに対して口煩くなるのには理由がありました。
アイカは今春、ミーファが従者として仕える御家、杜音家に嫁入りしたからです。
杜音家は礼節を重んじる家系。故に、その一端となったアイカも、家訓に従う必要があります。
そのお目付役として任せられたのが、アイカの夫である空…『ソラ』の侍女、ミーファでした。
天真爛漫であるアイカが、渋々ながらミーファに従っている理由も同じです。
彼女は杜音家が堅苦しい家系であることを知りながら、その門をくぐったのです。
また、半ば脅迫に近い形でソラとの婚約を交わしたという、多少の引け目もありました。
ですが、夫であるソラは、そんなこと気にもせず彼女を愛してくれています。
恩は忘れぬアイカは、愛する夫にこれ以上迷惑を掛けたくないという気持ちもあり、
何度となく匙を投げながらも、こうして億劫な礼儀作法を習い続けているのです。
「背をしゃんと。迷い箸はせずに、突き箸にもお気を付けください」
当然ながら、彼女は嫌々習っていることですので、やる気などありません。
あるいは、教えてくれる人が愛する夫であれば、奮起したのかもしれません。
ですが、悲しいことに、彼女の講師は御小言の多い侍女です。
ミーファの言葉は、さながら夏の蒸し暑い夜に飛び交う、蚊の羽音のようでした。
アイカはそれに何度嫌気が差し、箸放り投げ、簪外し、足袋脱ぎ捨てたことでしょう。
もし故郷に金棒を置いてきていなければ、幾度とそれを振り回していたか分かりません。
「…めんどくせぇ」
その代わりとして、彼女の口から飛び出すのが、不満たらたらな言葉でした。
見れば、部屋に飾られた振り子時計の短針は、既に亥の刻を回っています。
講義を始めたのが戌の刻頃ですので、既に二時間ばかりもの時が流れています。
これが毎晩行われるというのですから、彼女の心労は計り知れないものでしょう。
「もう少しですから。さあ、続きを…」
対して、教鞭を振るうミーファに疲れの色はありません。
日がな気侭に過ごすアイカと違い、彼女は杜音家に仕える従者。
洗濯に、掃除に、そして礼儀作法の講義にと、一日を仕事漬けで過ごしています。
それでも顔色一つ変えない彼女に、アイカは半ば恐れに似た感情を抱いていました。
酒杯を片手に、奴はもしかすると人間ではないのでは…と、何度考えたことか。
「だっはぁ〜…」
さておき、四苦八苦ありながらも、やっと本日の講義も終わりました。
それと同時に、深い溜め息を吐きながら、ごろんと大の字に寝転がるアイカ。
もう満身創痍です。身を縛る窮屈な着物を、早く脱ぎ捨てた
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