宿幸灯雪

幸せというものに、果てなどありません。
今が一番と感じても、それは容易く塗り替えられることでしょう。

「『今日は僕に甘えてほしい』…?」

彼の意外な言葉に、私は目を見開きました。
恥ずかしそうに俯く彼。巣穴に隠れる子狐のように。

「…熱はありませんね」

私は彼の額に手を当てながら、病気ではないことを確かめました。
氷のように冷えた我が身とは逆に、常に温もりを宿した彼の身体。
とはいえ、私の腕の中にあるその身体は、いつも通りの温かさです。
特別、熱っぽいということはありません。頬が少々熱いくらいです。

「どうしたのですか? 突然そのようなことを…」

不思議に思い、私は未だに顔を埋める彼に尋ねました。
よほど勇気を振り絞っての言葉だったのでしょうか。耳まで真っ赤です。
そんな彼に、私はときめきを覚えながら、優しく彼の頭を撫でました。

それにしても、彼がこんなことを言うなんて夢にも思いませんでした。
私と彼は、彼が生まれた頃からの仲であり、お互いをよく理解しています。
その私が驚くほどに、先刻の彼の一言は想定外のものだったのです。

語れば長くなりますが、私が彼と出会ったのは、この身が小さな童であった頃です。
私は母様の御許しを得て、足繁く人里へと降りては、人間の子供達と遊んでいました。
元々、この土地は妖魔と人間との親交が深く、近隣の村の人々は私達に友好的でした。
共に遊んでくれるばかりでなく、家に迎え入れ、食事まで振舞ってくれたこともありました。
私は人間が大好きです。それは今も変わりません。彼らをとても愛おしい存在と思っています。

ある日のことです。今日のように、雪がしんしんと降り積もる日。
その時も私は、村の子供達と一緒になって雪合戦を楽しんでいました。

不意に、誰かの叫び声が村中に響き、途端に辺りは慌しい雰囲気に包まれました。
何事かと思い、傍らの友達に尋ねると、彼女は私の腕を掴んで、急に走り出したのです。
いったいどうしたというのでしょう。何度尋ねても、彼女は息切らせて駆けるばかり。
私も白い息を吐きながら、必死に彼女の足に合わせ、背中についていきました。

彼女と私が行き着いた先。それは何の変哲もない一軒家でした。
戸を開き、草履についた雪を払うのも忘れ、玄関を駆け上がる私達。
囲炉裏間は大人達でいっぱいでしたが、彼女は果敢にも突撃し、
僅かな隙間を押し広げては人壁を通り抜けようとしました。
山男達の巨体にぎゅうぎゅうと圧迫されながらも、私も彼女も、お互いの手を離しません。
彼女は私を、どこへ案内しようとしているのでしょう。何を見せようとしているのでしょう。
私はそれが知りたくて、ただひたすらに彼女を信じ、苦難の波に耐え続けました。

…ふと、彼女の足が止まりました。
人壁を抜けた、私達の目の前に現れたもの。

それは、今にも新たな命を産み落とそうとしている女性の姿でした。
私の手を離し、産気づいた女性に寄り添って、『お母さん』と叫ぶ友達。
苦しそうでありながらも、彼女の母様は、その表情をにっこりとしたものに変えました。
そして、我が子の頭を優しく撫でながら、雪解け水のように澄んだ声で囁き掛けました。

『もうすぐ、お姉ちゃんになるよ…』

小さな手を握り締めながら、再び痛みに悶える声を上げる母親。
産婆さんが駆け寄り、母親と赤ん坊を励まします。がんばれ、がんばれ。
それに合わせ、友達も涙を流しながら、母親と弟を応援しました。
一緒に遊んでいた子達も。周りを囲む大人達も。村中の皆が…。

…その中で産声を上げたのが、彼です。
私が初めて抱いた赤ん坊。顔を真っ赤に、泣きじゃくって。
彼女の母様と、父様、爺様、彼女の胸に抱かれ、その次に。
もしかすれば私は、その瞬間には、彼に恋していたのかもしれません。

それからというもの、私は毎日のように彼女の家に通うようになりました。
もちろん、彼のためです。母乳を飲み、湯浴みをし、おしめを変え、眠る彼を見るために。
私と彼女は、彼女の母様から教わりながら、彼の世話のいくつかを任せて頂きました。
それは彼が言葉を話し、歯が生え揃い、歩けるようになってからも、ずっと続きました。

だからこそ、私は彼がどういう人間なのか、彼の姉様と同じくらいに知っています。
つむじがふたつあるのも、おばけが苦手なのも、お米の硬さはどのくらいが好みなのかも。

その私が驚くのですから、それがどれほど意外なことか、ご理解頂けますでしょうか。

「…気にせずとも、甘えたままでいいのですよ」

小さな頭を胸に抱えながら、私は彼の首筋に、ふぅっ…と吐息を掛けました。
魔力を込めた吐息です。彼の心が、より私を求めるようになるお呪い。

「ふふっ…
#9829;」

効果はすぐに現れ、彼はとても切な
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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33