胎海婬奔

日々は、幸せで、平凡で、波立たないもの。
それを少し崩してくれるのが、サプライズ。

「おはよう、寝坊助さん」

優雅に宙を舞いながら、朝の挨拶をする彼女。
長い髪、透き通るヒレをなびかせて。御機嫌そうに。

「私の夢を見たのかしら」

それならしょうがないわ、と彼女は言葉を続ける。
掴みどころのない台詞。いつものことであり、魅力のひとつ。
ゆらゆらと漂う彼女を、僕は海底から見上げ、しばし惚ける。

蒼い星空に舞う妖精。なんて美しいんだろう。

「…あまり驚かないのね」

見惚れる僕に対し、彼女は少し意外そうな顔。
髪をゆらゆら、ヒレをゆらゆら。静かな波が彼女を愛でる。

驚かないのね…というのは、この状況についてだろう。
目が覚めたとき、僕がいつも見ているのは木目の天井だ。
でも、今日は違う。目の前に広がるのは、果てのない水の世界。
その中で踊るネレイス。僕を愛しく思ってくれる彼女が、そこにいる。

驚くワケがない。僕はまだ、これが夢か現か分かっていないのだから。
寝惚け眼に映る幻。その程度だ。顔を洗えば覚めるだろう、という…。

「まだ眠いのかしら?」

不意に、彼女は泳ぎ寄り、僕の顔へと手を伸ばした。
僕とベッドを包む膜のようなものを、彼女の指先が貫き、波紋を立てる。
すらりと伸びる、艶かしい海の肌を纏った腕。肘から先を覆う細かな鱗。
二の腕に幾重も絡む紫の髪が、その美しさ、妖しさを更に際立たせる。

「………」

僕の頬を、細い指が撫で…少し冷たい手のひらが包む。
それはまるで、母親のように優しくもあり、殺人鬼のように恐ろしくもあり。
慈しみ、喰らおうとする感情が、頬を通して僕の心を握り締める。とても強欲に。

それでも、僕はただ、彼女の金色の瞳を見つめるばかり。
瞳に映る自分の表情は、想い人を前に、熱く頬を火照らして。
未だに現状が分からず…しかし、彼女が僕の傍にいる事実に喜びを感じ。
胸の高鳴りは次第に強まり、これは現実であるということを脳が認識し始める。

そんな僕が今、胸中に強く抱く想いといえば。
彼女へ、おはようと挨拶を返したい…ということだった。

「…ふふっ♪」

僕の第一声に、彼女は可笑しそうに笑う。
ゆらりと横へ流れる髪。その背後を通る、小さな魚の群れ。

「相変わらずね。今の状況、分かっているの?」

その一言に、僕は首を傾げた。
何か不満なのだろうか。こんなにも幸せな状況なのに。

「縛られているのよ? 両手と両足…、逃げられないように」

言われて、僕は自分の腕へと目をやった。

…なるほど、確かに彼女の言う通り、手首ががっちりと縄で締められている。
足首も同じ。それらはベッドの支柱に括り付けられ、僕は僅かにも動けない。
よほどの力自慢でも、これを引きちぎるのは難しいだろう。それくらい念入りだ。

「そう、今の貴方は磔の身…。何一つ抵抗できない…」

くすりと微笑み、僕の耳をくすぐる彼女。
その手つきは猫や犬への愛撫と似ていて、独特のこそばゆさが身を襲う。

磔について、疑問なのは、どうしてこんな風にされたのか…だ。
僕は別段、彼女に対して悪いことをした覚えはない。嘘も吐いていない。
今まで通り、いつも通り。今日という日まで、とても平穏な日々だったはず…。

「………」

膜を抜け、彼女が更に僕へと身を寄せる。鼻頭が触れ、互いの吐息が届く距離まで。
艶髪に滴る雫が、僕の身体を濡らしゆく。まるで彼女色に染められゆくように。

「…ねえ」

ふと、彼女の表情から微笑みが消える。

「どうしてまだ、あの子達と一緒にいるの…?」

替わりに浮かんだのは、怒り、悲しみ、あるいは別の…。

額をコツンと合わせ、僕へと問う彼女。
脅すようにも聞こえれば、一方で弱々しくも聞こえる言葉。
鋭い牙で、甘く噛まれているような心地。憎さと愛しさの交差。

そんな彼女の台詞に、僕はひとつ、心当たりがあった。
あの子達…というのは、恐らく僕の女友達のことを指しているんだろう。

普段はとても穏やかな彼女だけれど、根っこはひどくヤキモチ焼き。
あからさまにではないにしても、彼女は僕が他の女性と遊ぶのを強く嫌った。
いや、遊びだけでなく、他愛ないおしゃべりさえも嫌っているように思う。
それほど彼女は独占欲が強く、良く言えば、僕のことを愛してくれているのだ。

「これはね、おしおき…」

でも、今回のような事態は初めて。
普段ならば、遠回しに不満を漏らす程度で終わるのに。
まさかここまで彼女の鬱憤が溜まっているとは思わなかった。
僕も極力、女友達と会うことは避けていたのだけれど…。

「私の言うことを聞いてくれない、ソラへのおしおき…」

ネレイスの変化に合わせて、世界も徐々に乱れ始める。
波はうねり、翻弄されるクラゲ達。魚達は
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4]
[7]TOP
[0]投票 [*]感想
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33