月の綺麗な夜だった。
信夫は夜の山道を歩いている。
等間隔に配置された街灯はかなり古く、中にはチカチカと明滅を繰り返している物もある。
頼りない灯りと青白い月光が歩調に合わせて交互に信夫の姿を照らし出す。
片手にバッグを下げた信夫は足元を見つめながら黙々と歩む。
ふい、と信夫の目の前を小さな光がよぎる、そこで信夫は初めて顔を上げて前を見た。
廃墟があった。
元は工場だったらしいその建物は相当な年月が経過しているらしく、目張りされた窓やシャッターは剥がれたり崩れたりして外部の侵入を拒む役目を放棄している。
全体が森に侵食されており、壁には蔦が絡みつき、地面に草木が生えている。
その荒廃した黒々とした姿が夜闇の中で月明かりに照らされて佇んでいる。
それを見上げる信夫の目の前をまたすうっと光の点がよぎる。
蛍だ。
季節外れのそれを一瞬目で追うと信夫は廃工場を囲う柵を無造作にくぐり抜けた。
管理が放棄されたようなその柵もまた老朽化が進んでおり、容易に侵入することが出来る。
敷地内に足を踏み入れた信夫は続けて窓の目張りが剥がれている箇所を見付け、そこを乗り越えて工場内に入り込む。
工場の中は外よりもさらに濃い闇に支配されていた。
信夫はしばらく足を止め、じっと闇に目を凝らす。
そうすると外側と同じく荒れ果てた工場内の景観が窓からの月明かりに照らされる様子が徐々に目に入ってくる。
工場勤めをしている信夫の目には見慣れた機械が並んでいるが、暗い中で埃を被っているところを見るといつもとまるで違う印象を受ける。
信夫は近くにあったプレス機の作業台の上にバッグを置き、腰を下ろした。
「……」
信夫の立てる音が止むと廃工場内に静寂が戻る。
虫の鳴き声だけが外から微かに届く。
すうっと、また信夫の目の前を蛍が飛んだ。
よく見てみると工場内にも意外な程に沢山の光点が舞っている。
微かに明滅を繰り返しながら蛍達はもう動くことのない機械達の上を泳ぐ。
そんな中で信夫は携帯を取り出して開いた。
画面の灯りに照らされて信夫の石のような無表情が闇の中に浮かび上がる。
画面に表示された時刻は夜の10時50分。
信夫は続けてズボンのポケットから一枚の手紙を取り出し、携帯の灯りにかざして見る。
照らし出された紙面には綺麗な文字で今日の日付と11時という時刻、そして今信夫がいるこの廃工場の住所が記されている。
昨日、信夫のアパートの郵便受けにこれが投函されていたのだ。
信夫は何度も読み返したその文章を今一度確認するとまたポケットにしまい、携帯を閉じた。
灯りが消え、周囲はまた月光と蛍の光だけの世界に戻る。
手を組み、俯いて信夫は地面を見つめる。
馬鹿な話だった。
差出人もわからない、「ここに来い」とさえ表記されていない紙切れに馬鹿正直に従って信夫はこんな非常識な時間に非常識な場所を訪れているのだ。
普通ならただの悪戯か何かと断じるものだ。
しか、信夫はその紙切れをどうしても無視する事が出来なかった。
うまくは表現できない、表現できないがこの手紙にどうしようもなく「香苗らしさ」を感じてしまうのだ。
寄れる事もズレる事もないかっちりした筆跡、場所と日時だけの簡潔すぎる情報、そして「匂い」
それこそ馬鹿らしい話だがこの紙切れから香苗の残り香のような物を感じる気がするのだ。
―――来ると思っているのだろうか―――
信夫は自分に問う。
ここで待っていれば香苗に会えると自分は考えているのだろうか?
もう死んでこの世に居ない香苗が会いに来るとでも?
―――帰ろう―――
信夫は両手で顔を覆い、ごしごしと擦った。
―――時間の無駄だ―――
ずきずきと目の奥が痛む。
―――ここにいても香苗は来ない―――
腰を上げようとする。
しかしまた下ろす、まだ約束の時間になっていない。
まだあと五分ある。
五分待てば来るのか?
来ない、それはわかっている。
だが香苗は時間に几帳面だった、早すぎず遅すぎず時間ぴったりに必ず来た。
「早めに来る事前行動というのもあるがあれは私は好きではない、待ち合わせの時間指定の意味が無くなってしまう。トラブルを予測して早めに出るのはいいがそれを当然のように相手に対して要求するのも変な話だと思わないか」
声も言葉もそれを言った時の表情も脳裏に鮮明に蘇らせる事が出来る。
信夫は頭を膝の間に押し込むようにして身を縮める。
少し、少しだけ心を緩めてみようか。
少しだけ甘い幻想に身を委ねてしまおうか。
後五分で香苗が来る。
後五分で香苗に会える。
五分だけ、そんな風に想像してみようか。
縮こまった体の内側でそっと携帯を開く、表示されている時刻は10時58分。
後二分で香苗に会える、何を話そうか。
あの世はどうだった?元気にしてたか?閻魔はどんな顔をしていた?どうしてこんな場
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