加工

野木麻人は結局のところ自分は現状に甘えているのだという事は自覚していた。
灯子に対して自らの想いを打ち明ける事は分の悪い賭けのようなものだ。
それなりに付き合いが長いのだから他の人間に比べれば多少の情はあるだろうが、それが異性関係に発展できるレベルなのかと言うと疑わしいと言わざるを得ない。
そもそも基本的に他人に対しての興味が薄い灯子に対して「好きです」だなんて言っても「だから?」とか返されそうな気がしてならない、一世一代の告白をそんな風にスルーされてしまったら立ち直れる自信が無い。
そして自分がそんな状態になってもやっぱり灯子は気にしそうにない、そんな気がする。
しかしそんな杞憂も何もかも人を好きになった人間ならば当然のように抱えるものであって、麻人が特別な訳ではない。
そして麻人は大多数の人間がそうするのと同じように踏み出そう踏み出そうと思いながらも現状維持に甘んじてしまうのだった。
そんな麻人をどこぞの神様だかキューピッドだかは見るに見かねたらしく、一つの大きな転機を二人の間に降らせたのだ。



その日は珍しく二人で外に出かけた日だった、基本的に外に出たがらない灯子だが時折インスピレーションを得たい時には取材の名目で少し遠出する事もある。
麻人にとってはちょっとしたデート気分を味わえる貴重な一時だ、もっとも行った先での灯子はスケッチブックにペンを躍らせるのに忙しくてとてもデートという様子ではないが……。
「植物が見たい」というリクエストに応えて植物園に行った帰り、灯子と麻人は住宅街で車を走らせていた。
どうやらその日は満足のいく「デート」だったらしく、助手席の灯子は機嫌が良さそうだった、最も麻人以外の人間が見たら「どこが?」と言いたくなるような表情だが、麻人には分かるのだ。
その時だった、ドアに肘を付いて外の景色を眺めていた灯子が突然窓に手を付いて何かに注視したのは。
「止めろ、止めろ、止まれっ!」
今まで聞いたことがない声で叫ぶ灯子に驚いて車を路肩に止めると灯子はドアを乱暴に開けて凄い速さで走り出した。
何が何だかわからないが灯子をほおっておく訳にもいかず、麻人も車を飛び下りて灯子を追って走り始める。
速い、ものすごい速さだ、普段運動に縁が無いとは思えない速度で灯子は走る、麻人がまるで追い付けない。
一体何事なのかと思って見てみるとどうやら灯子はほぼ真上を見ながら走っている。
視線の先を辿ってマンションを見上げてみると……。
「……げっ!」
赤ん坊がいた、高層マンションの見上げる程高い階層のベランダ、洗濯物が揺れる下で柵を乗り越えそうになっている。
体が半ば外に出てしまっており、もはや自力では柵の内側に戻れない所まで来てしまっている、いや、今にも落ちそうだ。
どうにかしなければ、と思うが一体どうすればいいのか分からない、仮に赤ん坊の落下地点に間に合って受け止めたとしても衝撃が吸収しきれる訳はない、この高さだと確実に命にかかわる。
「くそったれっ……!!」
悪態をつくがどうにもならない、やがて二人の見ている前で赤ん坊の体がぶらん、と柵から垂れ下がり。
「あっ……!ああーっ!!」
落ちた。
麻人にはどうすることもできなかった、赤ん坊が残酷な万有引力に引かれて真っ逆さまに落ちていく様を見ているしかできなかった。
しかしその時、目の前を走っていた灯子に信じられない変化が起こった。
ばさっ!
その腰付近から漆黒の翼が現れ、灯子は音もなく宙に舞い上がる。
空中にある見えない階段を登るようにするすると上昇し、落下する赤ん坊に接近すると。
ばささっ
翼をはためかせて急降下し、赤ん坊と同じ位の落下速度になる。
そうしておいてからふわりと赤ん坊を腕の中に抱き、翼を激しく動かして減速する。
「……」
麻人は瞬く間に起った常識外れの事態に完全に頭の中が真っ白になり、ただぽかん、と口を開けてその救出劇を見ていた。
灯子は落下速度をエレベーター位の速度に保つと、そのままゆっくりと立ちすくむ麻人の所に下降して来た。
(あれ……俺はいつの間に絵の中に入ったんだろう?)
働かない頭の中で麻人は思った。
赤ん坊を胸に抱き、黒い翼を揺らしながらゆっくりと天から舞い降りてくる灯子の姿は余りに幻想的で美しく、現実感に乏しい。
麻人は自分が一枚の絵画の中に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた、跪いて祈りを捧げたいような気分だった。
やがて灯子は麻人の前にふうわりと音も無く降り立つと、抱えていた赤ん坊を麻人に差し出す、夢見心地のような気分のまま麻人は落とさないように赤ん坊を受け取る。
気が付けば既に灯子の腰の黒い翼は無くなっており、そこにはいつものように猫背な彼女が立っているばかりだった。
白昼夢でも見たような感覚だったが、夢でない証拠に麻人の腕の中にはきゃっき
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