素材

人々が黒い波の如く行きかう巨大な交差点、その人ごみを見下ろすようにしてビルの側面に展示される巨大な広告の数々、野木 麻人(のぎ あさと)は交差点を歩きながら無数の広告の中でも一際大きく、目立つ看板を見上げた。
それはとある個人の美術展の広告だった、そのアーティストの一枚の絵画を巨大なサイズに引き伸ばし、その隅に作者の名前と開催場所、日時、入場料などの詳細が記されている、広告としては極めてシンプルな作りだ。
その絵画……「木の日」はそのアーティストの数ある作品の中で最もメジャーな一枚だ、一本の木を根元から見上げるようなアングルで描いたその絵は、夜空を覆うように広がる深緑の木の葉と夜闇が溶けあう様が異様な迫力と躍動感でもって描かれている。
こうして巨大な広告になっている状態では分かりづらいが、近付いて見てみるとかなり独特な表現で描かれているのがわかるはずだ、木の葉もその隙間からのぞく夜空もまるで火花が弾けるようなタッチで描かれている、そんなに奇妙な描き方をしているのに遠目から見ると写実的にすら見えるほど違和感が無い。
そしてそのタッチこそがある種異様な躍動感を絵に与えているのだ。
「やっぱすげぇなぁ……」
麻人はしばらくその広告を見つめて周囲の誰にも聞こえないような小声でぽつりと漏らした。



それから約30分後、麻人はその都市の中心部から電車で二駅分移動したあたりの高級住宅街を歩いていた、目的地に向けて迷い無く足を進める彼の手には何やら箱状の包みがぶら下げられている、それをある人物に届けるのが麻人の目的だ。
やがて麻人は高級そうな家々が立ち並ぶ中でも一際大きな家の前に辿り着く。
家の周囲を囲うように庭園、と言っていいような庭が広がっており、緑豊かな家が多い中でも一際目立つ。
蔦の絡み付く大きな玄関・・・と言うより庭園の入り口のような扉の脇にあるインターホンのベルを麻人は押す。
暫くの沈黙の後、インターホンのマイク部分から「サァー・・・」とノイズが聞こえ、マイクが繋がった事がわかる。
(……)
しかし向こうは何も言わない。
麻人はインターホンのカメラ部分を覗き込み、はたはたと手を振って見せる。
(……ブツッ)
向こうの相手は結局一言も喋らないままマイクを切ってしまう。
しかし暫くの間を置いて扉の向こうから「カチッ」と解錠の音が聞こえた。
麻人は扉をくぐり、庭園部分の煉瓦造りの道を歩いて玄関に辿り着くと、ノブを回して家の中に足を入れた。
「おじゃましまーす」
小声で断ってからフローリングの床に上がり、廊下の奥に進む。
真っ昼間だと言うのに家の中は薄暗い、光を取り入れる窓は沢山あるのだがその殆どがシャッターで閉じられていたり分厚いカーテンで覆われていたりするからだ。
広々としたリビングやキッチンも埃をかぶっており、まるでお化け屋敷のような有様である、趣向を凝らして設計した匠が泣こうと言う物だ、そんな中を麻人は勝手知ったる他人の家と言った感じで迷わず奥に足を進め、一つの部屋のドアの前に辿り着く。
「先輩、入りますよ」
「…」
どうやら中に人のいる気配があるが、インターホンの時と同じく返事は無い、麻人はドアを開けて中に入った。
入ったとたん、絵の具やテレピン油等のアトリエ特有の匂いが鼻を突く、普通の人ならば少し眉を顰めてしまうようなその匂いも麻人にとっては馴染み深い物で、逆に落ち着きを感じる。
その部屋は中庭の庭園に面しており、大きな窓からその中庭を見渡せる構造になっているのだがやはりカーテンが掛けられており、遮られて弱々しくなった日光がうすぼんやりと乱雑に散らかったアトリエの様子を浮かび上がらせている。
その部屋の中央、フローリングの床に直に胡坐をかいて座り込んでいる人影が一つある。
人影の前の床には多数の紙が散らばっており、その人物は紙に向かって背を丸めて屈み込み、何かしきりに描いているようだった。
「せんぱーい…餌の時間ですよー」
「…」
声を掛けられてその人影はようやく顔を上げて麻人の方を振り返った。
女性だった、肩のあたりまででぼさっと伸ばされた黒い髪は二つに分けて結えられ、いわゆるツインテールのような形になっており、窓からの弱い光に浮かび上がるその色白な顔は驚くほどに整っている、しかし長い睫毛の下から覗く黒々とした瞳に光は浮かんでおらず、なにか眼球に瞳孔が溶けてしまっているかのようにどろりとした印象を受ける。
そんな目に上目使いでじとおっと見られるのだ、普通の人間ならば思わず委縮する所だろうが、麻人は気圧される様子も無く手にぶら提げた包みを掲げて見せる。
「…ん」
女性は胡坐をかいた体勢のまま麻人の方に手を伸ばしてその包みを受け取ろうとするが、麻人はひょいとその手から包みを遠ざける。
「…何だ」
「先輩、僕が居ない間に食べた
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4]
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33