聖域


 トエントは切り株の上に座って息を整えている。
全身から湯気が立つほどに汗をかいた体の横に、身の丈程もある大剣が寄りかけてある。
「……」
呼吸が整っても、トエントは座ったまま動かない。
自身の顎に手を添えてそのままじっとしている。
指先に伝わる顎の感触に少し違和感を感じる。
少し前までは豊かな髭の感触を感じたそこは今、つるりとした肌の感触に変わっている。
ふと邪魔に感じて剃って以来、新たな髭が生えてこなかったのだ。
それだけではない。
手に刻まれていた深い皺が、気づけばすこしずつ消えて肌に張りが出てきた。
鏡を見ていないのでわからないが、恐らく顔立ちも変わっているのだろう。
インキュバス化。
自身の体に起こっている変化はそういう事なのだろう。
原因は明らかだ。
以前の自分は人間であることに拘りがあり、魔界産の物は口にしないようにしていた。
だが、今はどこ産だろうと何だろうと関係なく食っている。
食いまくっている。
もう、どうでもよかった。
自分が人間だとか、魔物だとか、そんな拘りは心底どうでもよくなった。
魔物化によって強くなれるのだったら魔物になったらいい。
自分がトエントであることに変わりは無い。
彼女に最高の自分を見せる。
今考えているのはただそれだけだ。
そうして狂ったように食って、食って、鍛えて、鍛えて。
しかし最近になってトエントは考えるようになった。
落としていた視線を上げて周囲を見る。
自身の腰掛けている切り株は一つではなく、そこいらじゅうにある。
昔からあるのではない。
たった今作られた切り株。
今しがたトエントが振った剣によって切り倒された大木がそこいらじゅうに転がっている。
森の中でそこだけ竜巻に見舞われたかのようになっている。
「暴風の騎士」
かつてトエントに畏怖と共に付けられた呼称だ。
周囲に広がる光景はまさに、トエントがその当時の力を取り戻しつつある査証だろう。
だが……。
トエントは腰の下の切り株の断面に指を這わせる。
ざらざらとした感触が伝わる。
猛烈な力で圧し折られた断面。
荒い。
過去のある一戦を思い出す。
自分を変えた大きな切っ掛けになった戦い。
ソラン・ストーサーとの一対一の戦い。
その当時の自分は全盛とは言わないまでも、それに近い実力は保持していた。
だが、勝てなかった。
ディム・ディン
彼女の実力が果たしてソランと比べてどうかはわからない。
だが、今がむしゃらに当時の自分を取り戻しても結果は同じになるように思えた。
ざりり、と切り株の表面をなぞる。
「荒い……」
考えてみれば、過去の戦いは戦場での乱戦が多かった。
並みいる大多数を一息に薙ぎ払うのであれば「暴風」でよかっただろう。
だが、極限に洗練された一人が相手の場合、それで通用するか?
身体能力に任せた強さでは勝てない、そんな予感がする。
暴れ狂う暴風、と呼称される力はつまりそれだけ荒い。
言い換えるなら無駄が多いという事だ。
もっと無駄を省き、必要な力を集約させて……。
トエントは立ち上がる。
「柔らかく……」
剣を持つ。
いつもの慣れた構えではなく、生まれて初めて剣を持つかのように。
探り、探り、姿勢を変えていく。
「柔く……柔く……」
暴風ではなく、もっと穏やかな風。
「柔く……」
そよぐような、なびくような。
「……」
それでいて早く、鋭く。
「……」
そよ風のように。
「……」
全身を、そよ風に。
ふわり、と、トエントの体が動いた。







 「ままならないねぇ」
夜の酒場で、二人の魔物がテーブルを囲んで座っていた。
ディムとイオだ。
イオは椅子に浅く腰掛け、手に持ったグラスの中の赤い液体をゆらゆらと揺らしている。
「……」
ディムはナイフとフォークで皿の上の肉を切り分けて口に運んでいる。
「本当は止めないといけない立場なんだけどねぇ……こんなでも一応、街の治安を預かってる身だしぃ」
「すみません」
グラスから水を一口飲んで、ディムが言う。
言葉とは裏腹にその口調には断固たる決意が滲んでいる。
イオは赤い液体を一口飲むと、やれやれ、とばかりにため息をつく。
イオはディムの性格を知っている。
今までもう、尽くせるだけの言葉は尽くした。
それで曲がらないのであれば、もうどうあっても彼女の決意は揺らがないだろう。
ディムはカチャ、とフォークとナイフを皿に置いた。
「自惚れさせて貰うなら、私しかいないのです」
周囲を見る。
落ち着いた雰囲気の酒場には、他にも何組かの客がいる。
恋人同士らしき魔物と男のカップルや、魔物同士、男同士、それぞれに酒を楽しんでいる。
静かな夜だ。
「夜襲の恐怖に震える夜」
目の前の皿に視線を落とす。
「これが最後になるかもしれない食事」
イオの事を見る。
「昨日、言葉を交わした友人が、今
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