気焔


 「寂しいね」
グラスを揺らしながら、バーカウンターに座る美しい青年がこぼす。
トエントが習慣のように早朝の酒を楽しみに来ていたバーだった。
普段ならば来ている時間だが、今トエントの姿は無い。
今日だけではなく、ここ一週間ほどこのバーに姿を現していない。
カウンターの店主はその呟きには反応せず、ただ黙ってグラスを磨き続けている。
青年も反応を求めていた訳ではないらしく、独り言を呟く。
「もしかして……進む道を見付けたのか……あるいは……」
カラン、と氷を鳴らしてグラスを傾ける。
「終わらせようとしているのか……」







 トエントは膝に手をついて息を切らせている。
訓練用の服は水に飛び込んだかのように汗でずぶ濡れだ。
握っている練習用の木剣は握りが血に汚れている。
まめが潰れたのだ。
借りている宿の裏にあるちょっとした庭。
店主が何かを植えようかと計画したが、結局栽培にも花壇にも利用される事無く放置されていた庭。
その場所を借りてトエントは訓練をしていた。
ディムとの約束から一週間、朝から晩まで取り憑かれたように剣を振り続ける毎日を送っている。
鈍っていた全身は悲鳴を上げたが、その体の悲鳴を懐かしむようにトエントは訓練に没頭する。
ふつふつと胸の内に火が灯っている。
燃え尽きて灰も残っていないと思っていた心に、まだこれほど燃やせる部分があったのかと自分で驚く。
幕を引きたい。
そう願った。
ただ介錯をしてもらうのではない。
最後にもう一度、斬り合いたい。
ひりつくような命のやり取りの末に敗れて死にたい。
今のトエントはそれだけを望んで命を燃やしていた。
「ふうう」
深く息をついて、再び剣を握りなおす。
と、そこで初めて周囲の暗さに気付いた。
剣を振り始めた時はまだ朝方だったはずだが、昼も夕方もとうに過ぎ、すっかり夜のとばりが降りている。
まるで気付かなかった。
時間の経過を意識した途端、ずっしりと体が鉛のように重くなる。
思わず崩れ落ちそうになるところを、剣を杖代わりにして身体を支えた。
木に吊り下げておいた革の水袋の所にまで何とか辿り着き、口をつけてがぶがぶとぬるい水を飲む。
渇きを癒すと、そのまま頭からばしゃばしゃと水を被りはじめた。
生きている。
水の心地よさ、酷使された全身の筋肉の悲鳴。
どくどくと鳴り響く心臓。
少なくとも酒に溺れていた時よりもはるかに、トエントは自分の生を実感していた。
それと同時に皮肉にも感じる。
やはり、自分はそういう人間なのだと思い知る。
平和な世の中に迎合できない人間なのだと。
水袋が空になるまで水を浴びたトエントは、次に空腹を訴える胃袋の欲求を満たすために道具を片付け始める。
「……」
服を脱ごうとした所でぴた、と動きを止めた。
吸い寄せられるようにトエントの視線が庭の入口の扉に向けられる。
庭は木を組んだ簡素な柵で囲われている。
その柵に付いた扉をトエントは凝視する。
何かが、そこから漂い出ている。
ゆらゆらと微かに扉の輪郭がぶれる。
(……陽炎……?)
気温はそんなに高くない、むしろ肌寒さを感じる程度の温度なはずだ。
しかし、トエントの目には確かにその扉が陽炎に揺らいで見える。

 カチャ

 扉が開いた。
赤い。
開いた扉の向こうを見た瞬間、トエントの網膜が感じたのはまず鮮烈な赤だった。
女、火を纏った女。
深紅の髪、深紅の鱗、深紅の唇、深紅の瞳。
サラマンダーの女だ。
トエントはこの女の事を知っている。
この街に住んでいるならば知らない者はいない。
四人の精霊使いの一人、イオ・ヴォックス。
何故こんな所に?何の用で?
そんな疑問を感じる前に、トエントの身体は無意識に木剣を構えていた。
熱い。
巨大な炎を前に立ったように皮膚が焦げ付く錯覚すら覚えた。
それほど熱いのに、背筋には鳥肌が立っている。
「こんばんはぁ」
裂けるような笑顔でイオは言う。
トエントは答えない、ただ木剣を構えてイオを見る。
イオはふらりと庭に入り込む。
トエントの構えをまるで気にしていないような素振りだ。
「面白い事をしようとしてるみたいですねぇ、トエント殿ぉ」
特徴的に間延びした語尾はいっそ呑気に聞こえる。
身に纏う空気とは真逆に。
「……」
トエントは何も答えない、口を利く余裕は無い。
イオは手に剣を持っている。
「鉄で斬られたいだなんてぇ……」
笑いながらすらりと、事も無げに剣を鞘から抜いて放り投げた。
カラカラと乾いた音を立てて鞘が転がる。
鈍い輝き。
鉄の剣。

「あの子に頼まなくったって今ここで私が叶えてあげますよぉ」

 ふい、とイオが視界から消えた。
視線では全く追えなかった、反応出来たのはひとえに経験の賜物という他ない。
ほぼ無意識に右足を軸に身体を開き、半身になる。

 チッ

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