自分が安全な地面に立っていると、足元以外の地面も安全なのだと思い込む。
周り一帯に安全で平坦な地面が広がっていて、この先も続いているものだと。
しかし、往々にしてそれは錯覚で。
実際には切り立った山の上の細い尾根を踏み外さないように歩を進めているだけなのだと、菊池雅史(きくち まさふみ)は思い知っていた。
「……ひっ……ひっ……ひっ……」
本当は叫び出したいのに、喉から漏れるのはそんな悲鳴とも嗚咽ともつかない掠れた声だけだ。
走って逃げ出したいのに、膝は小鹿のように震えるばかりで言うことを聞かない。
薄暗い路地に立つ菊地に出来ることは何もない。
「……ごにょ………ごにょごにょ………ごにょ………」
その立ち竦む菊池の前で、ふらふらと上体を揺らしながら少しずつ歩み寄って来るのは背広姿の男。
中肉中背のその姿は一見すると普通のサラリーマンか何か。
だが、その顔が普通ではない。
欠けている。
障害によってそうなっているとか、そういうレベルではなく。
右半分がそっくり無くなっている。
今しがた凄惨な事故にあったかのように、断面からどくどくと血を流している。
そして、その左半分だけになった口で。
「ごにょ………ごにょ………ごにょごにょ………」
聞き取れない何かを呟きながら、フラフラと菊地に近付いてくるのだ。
(どうして……どうしてこんな事に……)
脂汗を流しながら菊池は考えても仕方のない事を考える。
部活で遅くなった一人の帰り道だった。
いつも何となく嫌な感じがしていた帰り道にある路地裏から、何かが聞こえた気がした。
それは人の声のようだった。
呻き声のようなそれは、何か助けを求めているようにも聞こえた。
本当はそこには近付きたくなかったが、もしかしたら誰かが倒れているかもしれないと思ってその路地裏に入って行ったのだ。
そうしたら、背広姿のそれが立っていた。
見た瞬間に体が動かなくなった。
後から考えると「金縛り」というやつなのだろう。
ほんの少し帰り道を逸れただけなのに、帰ったらやりたいゲームもあったのに。
どうして、こんなモノと向かい合う事になってしまったのか。
「ごにょ………ごにょ………」
男はいよいよ数メートル先にまで近付いて来ている。
相変わらず体は動いてくれない。
よく聞く怪談のオチみたいにいっそ気絶したかったが、恐怖に震えながらも頭ははっきりとしており、男から漂って来る血の臭いまではっきりと感じる。
濁った瞳孔が、菊池を見ている。
(誰か……!)
パン!
路地裏に乾いた音が鳴り響いた。
飛び上がるほど驚いて音のした方を振り返ると、一人の少女が立っていた。
身長の高い方でもない菊池の胸くらいまでの小さな背に、短めのお下げをうなじに垂らした髪型。
(……善治さん……?)
善治依江(ぜんじ よりえ)
一瞬、クラスの同級生だと見て気付かなかった。
いつもはぱっちりと大きい瞳が薄く細められたその表情は、クラスで見せたことのない表情だ。
何だか仏さまみたいな表情だ、と思った。
(どうしてここに……?)
と、その手が合掌の形になっているのを見て、ようやく今しがたの音が善治が柏手を打った音だと気付いた。
呆気に取られて見つめる菊池をよそに、善治は柏手を打った姿勢のまま言った。
「お引き取り下さい」
これもまた、教室で聞いたことのない低い声だ。
女の子の声でありながら荘厳というか、不思議な威厳を感じさせる声だった。
と、あの存在の事を思い出して慌てて振り返る。
「あれっ」
目の前にあるのはただの寂れた路地裏の風景。
あの血にまみれたおぞましい存在は影も形も無い、地面に血痕も残っていない。
立て続けに起こる事態に呆然としていると、善治に強く腕を引かれた。
「行こう」
そう言われて初めて自分の体が動くようになっていると気付いた菊池は、腕を引かれるままに善治に付いていった。
がやがやと人々が行きかう夕暮れの大通りに出て、ようやく頭が働き始める。
「あ、あの善治さん」
「この辺ならもう、大丈夫」
強く掴んでいた腕を離して善治が言う。
「あのね、菊池君」
(あ、名前知ってるんだ)
善治はクラスの中でもどのグループにも属さない、ちょっと浮いた存在だった。
なので、自分の名前を知ってる事が意外だった。
「嫌な感じのするところにはなるべく近寄らないようにした方がいいよ」
そう言って、立ち去ろうとする。
「あ、あの、善治さん」
「さん付けなくていいよ」
振り返って善治が言う。
「ぜ、善治、今のって、あの、その、善治が助けてくれたんだよな?」
「別に」
別にって事はないだろう。
あの場に善治が来なかったら今頃どうなっていたかわからない。
「何かお礼させてくれよ!恩人なんだから」
「大げさだよ」
「いやでも……」
菊池が粘ると、善治はちょっと考え
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