僕は、自分が赤ん坊だったころのことを、なんにも覚えていない。
 当たり前といえば当たり前かもしれないが、不思議なものだとも思う。
 そう何年も前のことではないはずなのに。

 父や母に、生まれた時の僕はどんなだったの、なんて聞いたこともない。
 気が引けるからだ。
 どうせ、しょっちゅう風邪をひいて手間のかかる赤ん坊だったんだろう。
 覚えていなくたって、それくらいのこと見当はつく。
 
 そんなことを、あえて思い出させる必要なんかないじゃないか。
 人が嫌な顔をするようなことは、慎重に避けて通るべし。
 きっと、お互いきまりの悪い思いをするはめになるから。
 赤ん坊から今までの間に、僕が学んだ上手く生きていく術。
 だけど、結局は何も分からないまま。
 そんなふうにして、今日までやってきた。 

 たとえば、風呂にはどうやって入れてもらっていたんだろう。
 体を洗ってもらったことも、たぶんあるはずだ。
 誰かと一緒に入った覚えこそないが、さすがに這い這いもできないような乳飲み子の時分に、ひとりで風呂に入るのは無理だろう。
 一人になったのは、たぶん、下に実や成が生まれてからだ。
 人並み、には少し劣るかもしれないが、その頃の僕はもう、赤ん坊といえるような年ではなくなっていて、ひょこひょこ歩いたりもできるようにはなっていたろう。
 湯船に出入りしても、滑って転んで溺れる心配は少ない。
 親としてはそれよりも、正真正銘の赤ん坊である、弟たちを見ていなければならない。
 二人が抱っこされながら湯につかるのを、その頃の僕は目にしていただろうか。
 僕も、同じようにしてもらっていたんだろうか。
 むしろ、放っておいたがために、まかりまちがって湯船に浮かび、あらまあ大変、気付かなかった。
 そんな口減らしのやり方もあるんじゃないだろうか。
 などと、嫌なことを考えたりした。
 思い出せない、聞きたい、聞けない、の間をぐるぐる回るばかり。
 一人の風呂場は、随分と広く見えていた。それだけはどうやら覚えている。
 きょうだいを妬むこの気持ちは、あの時からずっとなんだろうか。
 思いのほか、澱の底は深いのかもしれない。
 どうりで嫌な子供が育つはずだ、と思う。


 そのころから、密かに欲しいものが、あった。
 
 
 僕の住まいから見て川向う、村では「かさもりさま」と呼ばれるお社が建っている。
 そこには、きつねが祀られている。
 稲荷社である。
 そのおきつね様には、尾が九本あったという。
 この国に稲荷社は数あれど、中でも九尾を有する稲荷神は、格が最も高い神様なのだそうだ。
 昔語りにいわく、日照りの年には雨を、寒い夏にはあたたかな陽を恵み、村に豊かな実りをもたらした。
 時として雨が多く降り過ぎても、山の神を説き伏せて、村を流れる川に雨水を流れ込ませないようにさせたため、田や畑は無事守られた。
 更にいわく、流行り病も村には寄せ付けず、近在の集落を次々と疫が飲みこんでいく中、一人の病人も人死にも出さなかった。
 などといったありがたい言い伝えが、社の大絵馬に描き残され、御神体と共にうやうやしく収められている。
 ことほど左様に、その霊験はあらたかなものであるらしい。
 
 いつも、「かさもりさま」の境内は子供の遊び場になっている。
 なっているからこそ、僕みたいなものはそこに寄りつけない。
 餓鬼大将どもと顔を合わせるのは、山道で熊と出くわすようなものだ。
 そこに熊がいるとわかっていて、のこのこ近づくほど僕は馬鹿じゃない。
 
 熊どもがいなくなった時を見計らって、こっそり一人。
 抜き足差し足神前までやってきて、音もなく柏手を打った。
 人の目、自分の目、神様の目。
 あらゆる目をはばかって、こそこそと手を合わせていた。
 
 ここだけの話、僕は「かさもりさま」の言い伝えを、あまり熱心に信じてはいなかった。
 罰当たりと怒られるのが嫌だから、大きな声では言えない。  
 三つと五つのお祝いに、飴をもらったついでに手を合わせていたころは、まだ無邪気だった。
 だいいちご利益が大げさすぎる。
 うちの村だけ日照りも疫病もなんともなかったなんて、昔話にしたって虫がよすぎはしないか。
 なにより、そんなにありがたい神様のわりに、僕のお願いひとつ、まともに叶えてくれないじゃないか。
 こっちは疲れやすい体をおしてまで、お願いしにやって来ているのに。
 信じないとはいいながら、いざ「かさもりさま」の前に立った時は、それなりに期待をしないでもないのだった。
 どうせ信じていないのだからと、一度に三つもお願いをした。
 何のことはない。
 虫がいいのは他でもない、僕だ。
 そのくせ、賽銭も何も、用意してこないのだから、まったく話にならない。
 
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