君ならずして誰かあぐべき(二)

「あ、エシェル、おかえり」
 …つい数分前の自分が、まるで夢の中にいたよう。
 あの思い出すのもためらわれるような、お風呂場でのふるまい。
 夢だったとしても恥ずかしさに耐えられないのに、全部本当にしてしまったことだなんて。
 なんだか、ルネをいじめて、汚してしまったようで、後ろめたい思いにあたしはさいなまれるのだった。
 ルネが、かわいらしいパジャマ姿で、にっこり笑ってくれればくれるほど、その思いは強くなった。
 
 だから、今のあたしは、非常に、ルネと目を合わせづらい。
 こんなメドゥーサ、他にいるのかしらと自嘲した。
 
 そして、身体の方は身体の方で、さっきママに変なところで邪魔…じゃない、止めてもらったものだから、気持ちとは裏腹に、なんというか、悶々とした感じが続いていた。

 ルネは、食器を並べているところだった。
「…ママは?」
「えーと、さっきセルパおじさまが帰ってきたから、まだ玄関かな」
「…なんか、ごめん。手伝うわよ、あたしも」
「ありがと、エシェル。でも、こっちはだいたい並べ終わるから、座って待ってていいよ。
 僕、お台所でお鍋かきまぜてくるね。
 おばさまがお迎えに出たから、とりあえず蓋だけ取っといたんだけど」
「あ、ま、待ちなさいよ、それこそあたしがやるわよ!
 ルネはお皿、さっさと並べちゃって」
 あたしはルネを引きとめ、キッチンに向かった。
 何かしてないと、申し訳なくて…なんて、言わなくてもいい、わよね…?

 我が家の、パパとママの「おかえりなさい」のキスは……長い。たぶん、10分くらいは平気で玄関にいる。ルネがお家にいるときだろうが、控えるようなことはしない。
 たまに、明らかに変な息遣いとか、ささやき声が聞こえることもあって、そのたびなぜか、あたしがルネに謝っている。
 ママがお鍋を放ってパパのところへ行ったのを、お子様らしからぬ気配りで察し、ルネが代わって見てくれていたらしい。
「仲がいいのは、いいことだよ。うちはなかなかお互いの時間が揃わないから」
 ルネは平然としたもの。あたしたち家族との三年の付き合いの間に慣れてしまったのか、もともと図太いんだか知らないけど、ここまで動じないとなんか、逆に不安になってしまう。
 実の娘が、玄関先から漂ってくるあやしい空気に、ちょっとあてられそうになってるっていうのに。
 それにしても、その空気にひとあし早く完全に酔っぱらって、ほいほいルネのもとに身体を伸ばしていこうとするこの蛇たち、どうしたものかしら。
 ええい。ここはお鍋に集中して、余計なことを考えないようにするしか。
 お玉を使って、お鍋の底が焦げないよう、ゆっくりかきまわす。
 お鍋の中は、ルネの好物のラタトゥイユだった。
 野菜がメインのお料理だから、あたしはあまり好きじゃなかったんだけど、ルネに付き合わされて食べさせられてるうちに、いつしか普通に食べられるようになっていた。
「ルネくんの好物ですものねぇ」
 ママが以前、そう言って意味ありげな笑みを浮かべていたことを思い出す。
 なんか、また腹が立ってきた。

 …あたしは、ルネに、なにかしてあげたことなんて、あったっけ。
 このお料理みたいに、おいしいもので喜んでもらったり、困ってるルネを助けてあげたり。
 考えれば考えるほど、心当たりがない。
 ルネに、つっけんどんなこと言ったりとか、逆のことだったらたやすく思い浮かぶんだけど。
 ルネは、あたしが何を言っても、たいていにこにこ笑ってた。
 あたしが何を着ても、何をしても、「かわいい」って言ってくれた。
 あたしは、緩む頬を見られたくなくて、とげとげしい態度をとるばかり。
 ルネと、けんかしたような覚えなんかない。
 けんかにさえ、なってなかったんだわ。
 たいてい、あたしがわがままを言って。大きな声を出して。
 当たり前のように、ルネが笑って。そして、いつでもあたしは許されてきた。
 …あたし、ありがとうの一言だって、喉につかえて出てこないってのに。
 口先でお姉ちゃんを気取ってばっかりで。
 …本当、甘えるにも程があるわよね。
 あげく、お風呂場で、あんなことまで…
 あたしってば、どこまで――

「んー、トマトのいい匂いしてきた」
 あたしの横から、ルネがひょいと顔を出した。
「ひゃ!!?」
 あたしは思わず、すっとんきょうな叫びをあげてしまう。
 だって、だって。
 あたしの、顔の、すぐそばに、ルネが。
 さっき、お風呂場でさんざん……その、思い出してた顔が!
「おいしそうだね、エシェル?」
 ルネは、そう言ってあたしのほうを見た。
 首をかくんと縦に動かしたっきり、あたしは完全に身動きが取れなくなっていた。
 あたし、メドゥーサなんじゃなかったっけ。
 その魔の眼でひと睨みす
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