「あ、エシェル、おかえり」
…つい数分前の自分が、まるで夢の中にいたよう。
あの思い出すのもためらわれるような、お風呂場でのふるまい。
夢だったとしても恥ずかしさに耐えられないのに、全部本当にしてしまったことだなんて。
なんだか、ルネをいじめて、汚してしまったようで、後ろめたい思いにあたしはさいなまれるのだった。
ルネが、かわいらしいパジャマ姿で、にっこり笑ってくれればくれるほど、その思いは強くなった。
だから、今のあたしは、非常に、ルネと目を合わせづらい。
こんなメドゥーサ、他にいるのかしらと自嘲した。
そして、身体の方は身体の方で、さっきママに変なところで邪魔…じゃない、止めてもらったものだから、気持ちとは裏腹に、なんというか、悶々とした感じが続いていた。
ルネは、食器を並べているところだった。
「…ママは?」
「えーと、さっきセルパおじさまが帰ってきたから、まだ玄関かな」
「…なんか、ごめん。手伝うわよ、あたしも」
「ありがと、エシェル。でも、こっちはだいたい並べ終わるから、座って待ってていいよ。
僕、お台所でお鍋かきまぜてくるね。
おばさまがお迎えに出たから、とりあえず蓋だけ取っといたんだけど」
「あ、ま、待ちなさいよ、それこそあたしがやるわよ!
ルネはお皿、さっさと並べちゃって」
あたしはルネを引きとめ、キッチンに向かった。
何かしてないと、申し訳なくて…なんて、言わなくてもいい、わよね…?
我が家の、パパとママの「おかえりなさい」のキスは……長い。たぶん、10分くらいは平気で玄関にいる。ルネがお家にいるときだろうが、控えるようなことはしない。
たまに、明らかに変な息遣いとか、ささやき声が聞こえることもあって、そのたびなぜか、あたしがルネに謝っている。
ママがお鍋を放ってパパのところへ行ったのを、お子様らしからぬ気配りで察し、ルネが代わって見てくれていたらしい。
「仲がいいのは、いいことだよ。うちはなかなかお互いの時間が揃わないから」
ルネは平然としたもの。あたしたち家族との三年の付き合いの間に慣れてしまったのか、もともと図太いんだか知らないけど、ここまで動じないとなんか、逆に不安になってしまう。
実の娘が、玄関先から漂ってくるあやしい空気に、ちょっとあてられそうになってるっていうのに。
それにしても、その空気にひとあし早く完全に酔っぱらって、ほいほいルネのもとに身体を伸ばしていこうとするこの蛇たち、どうしたものかしら。
ええい。ここはお鍋に集中して、余計なことを考えないようにするしか。
お玉を使って、お鍋の底が焦げないよう、ゆっくりかきまわす。
お鍋の中は、ルネの好物のラタトゥイユだった。
野菜がメインのお料理だから、あたしはあまり好きじゃなかったんだけど、ルネに付き合わされて食べさせられてるうちに、いつしか普通に食べられるようになっていた。
「ルネくんの好物ですものねぇ」
ママが以前、そう言って意味ありげな笑みを浮かべていたことを思い出す。
なんか、また腹が立ってきた。
…あたしは、ルネに、なにかしてあげたことなんて、あったっけ。
このお料理みたいに、おいしいもので喜んでもらったり、困ってるルネを助けてあげたり。
考えれば考えるほど、心当たりがない。
ルネに、つっけんどんなこと言ったりとか、逆のことだったらたやすく思い浮かぶんだけど。
ルネは、あたしが何を言っても、たいていにこにこ笑ってた。
あたしが何を着ても、何をしても、「かわいい」って言ってくれた。
あたしは、緩む頬を見られたくなくて、とげとげしい態度をとるばかり。
ルネと、けんかしたような覚えなんかない。
けんかにさえ、なってなかったんだわ。
たいてい、あたしがわがままを言って。大きな声を出して。
当たり前のように、ルネが笑って。そして、いつでもあたしは許されてきた。
…あたし、ありがとうの一言だって、喉につかえて出てこないってのに。
口先でお姉ちゃんを気取ってばっかりで。
…本当、甘えるにも程があるわよね。
あげく、お風呂場で、あんなことまで…
あたしってば、どこまで――
「んー、トマトのいい匂いしてきた」
あたしの横から、ルネがひょいと顔を出した。
「ひゃ!!?」
あたしは思わず、すっとんきょうな叫びをあげてしまう。
だって、だって。
あたしの、顔の、すぐそばに、ルネが。
さっき、お風呂場でさんざん……その、思い出してた顔が!
「おいしそうだね、エシェル?」
ルネは、そう言ってあたしのほうを見た。
首をかくんと縦に動かしたっきり、あたしは完全に身動きが取れなくなっていた。
あたし、メドゥーサなんじゃなかったっけ。
その魔の眼でひと睨みす
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