開戦前夜

 
 おナベが後ろでくつくつと煮えている。

 赤い窓から、カラスの鳴き声が遠く聞こえる。

 たまに紙にエンピツを走らせると、カリカリと小さな響きが居間に広がっていく。

 とても静かで、考えごとがはかどりそうな時間。
 ぼくの好きな時間のひとつだった。

「ただいま。戻ったぞ」

 あ、姉さんが帰ってきた。

 玄関からの凛々しい声を聞いて、メモを自分のポケットにしまってイスから立ち上がる。

 ほどなくして、ぼくのいるダイニングキッチンにつながるドアが開いた。

 ひょこっ、と金色の髪と黒い片角が廊下から部屋の中を覗く。
 そのままくるりとこちらを向いた。

「今日は……誰も遊びに来ていないのか、スズ?」

 マジメそうな表情としっかり着こなしたレディーススーツに対して、どこかキョロキョロと周りをうかがうような様子のギャップ、それにすこしだけ笑ってしまった。

 だれも来てないよ、と答える。
 ついでに、きょうのゴハンはビーフポトフを作ってみたよ、とも。

「そうか…………そうか」

 二度ほど深くうなずいてから、首がひっこむ。

 バタバタっと階段を上がる音と二階の部屋のドアが閉まる音がしたのは、そのすぐ後。

 さらに、上からドタタッと走り下りてくる音。

 そして部屋の中まで足音が勢いよく入ってくると、おナベに向かっていたぼくは後ろから思いきり抱きつかれた。

「うあぁぁ〜〜! もう疲れたぁぁ、スズぅ〜!!」

 ドン、と押されてオタマを取り落としそうになる。
 あぶないよタツねえ、とあわてて声をかける。

「ふぁぁ……ふぁぁぁ、あふぁ……ふぁぁっ!!」

 だめだ聞こえてない。
 今の姉さんは、ふあふあ言いながらぼくの背中に頭をグリグリこするだけのマッサージ機じみたナニカになってしまっている。

 これでは作業ができない。
 たまにツノも当たってちょっと痛い。

 火を止めて後ろを向く。

「スズぅ……私なぁ、これでも頑張ってるんだぁ……! なのになぁ……あのガンコ主任、なんどもなんどもデザインの修正かけてきてなぁ……ふあぁぁ……!」

 ピシッと背すじをのばせば少なくともぼくよりは30センチは背が高いであろう女の人が、ぼくのおなかに向かってシャツ越しにふにゃふにゃと泣きごとを言っている。
 本当に泣いてはいない、と思うけど。

「ふぁぁ……! ゴト姉は気が向いた時にしか仕事してくれないしぃ……トラとスナは元から戦力外だしぃ……」

 戦力外とはひどい言いかたな気がしたけれど……でも、よく考えたらその通りかもしれない。

 今こうしてひっつき虫になってしまっているのが、ぼくの姉さん。
 4人の姉さんたちのうちの1人、タツねえだ。
 キマイラである姉さんの中で、ドラゴンにあたる。

 いつもは姉さんたちの中でもすごくしっかりした人で、お役所の手続きや町内会のお仕事とかの外向きの用事なども一手にこなす、カッコいいオトナな女の人……なのだけれど。

 下を見る。

「もう私はダメだぁ! ダメダメだぁ……!」

 シャツと下着以外を自室に脱ぎ捨ててきて台所の床にヒザをついて、ぼくのおなかに顔をうずめている今の姉さんは、少し…………いや、かなり、カッコいいドラゴンとは言いにくい感じだった。

 これは、あれかな。
 たまにタツねえがなってしまう、トラねえが"あまえんぼトカゲ"と名付けてからかっているあの状態になってるみたいだ。
 一応タツねえ本人が言うには、甘える相手は選んでいるらしいけど。

「スズぅ……! あぁぁぁ、スズぅ…………ずびっ」

 選んでいるというか、スズ――つまりはぼく限定で、こんなふうにひっついてくる。
 他の人の見ていないところ、という条件付きで。

 あと今、ハナミズをかまれてしまった気がする。
 エプロン着てて本当によかった。

「……………………っ!! ずずっ!」

 だめだ離れてくれない。
 やんわり頭を離そうとしたら、思いのほか強い力で抵抗されてしまった。
 一瞬、前にTVでみたアメリカンフットボールの試合を思いだすくらいの力強さだった。
 そして、また鼻をかまれてしまった。
 
 姉さん、夢がかなって広告をつくるシゴトについた時には喜んでいたけど、しばらく経った最近は少し悩んでいるらしい。
 タイジンカンケイ、って言うんだっけ?

 押しつけられてくしゃくしゃになっていた、普段はきっちり整えられている金の髪をなでる。
 ついでに、よしよしと言ってみる。

「スズぅ……ありがとぉスズぅ……あぁ癒されるなぁ……なんだか香ばしい、スズのいいにおいもするなぁ……」

 たぶんそれはぼくじゃないと思う。
 後ろの料理のにおいだと思う。

 しかしこのままではずっとゴハンの時間にならないし、エプロンが
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