定時だ。
会社の定めた終業時刻、定時だ。
もはや定時という言葉など虚飾と言うにもおこがましいと思うのだが、それでも形式上はこの時間が定時であると決められている。
もちろん今日も仕事は終わらない。
1つキータイプしては部署のため、1つメール送っては会社のため。
具体的なノルマとしては、週明けの新商品プレゼンのための資料作成などといった、大層な名目のお仕事が残っている。
適当なところで切り上げて、残りは家でやらないとなぁ、などと思っていたのだけれど。
それを遮ったのは、隣の席からの声。
「ヒロさん、今日部長が飲み行こうって言ってましたよ」
……残念、自分のプランは全ておじゃんになってしまった。
なぜこの鬼も裸足で逃げ出すような忙しい時期に、また、明日にも出勤を控えているのに、そういう要らん事を考えてついてしまうのだろうか。
皆をねぎらいたい? 無礼講?
いやはや部長、なんと部下思いなんでしょうか。
しかし、それならばもう少し思いやりかたを選んでほしかったところですな。
それから隣の席の後輩くんと、なにがプレミアムフライデーだなどと世の意味不明な新ルールについて、愚痴を言いあいながら時間いっぱいまで可能な限り作業を進めること、およそ4時間ほど。
実に遅い『定時』に仕事を切り上げた我々は、部長に連れられて駅裏の彼の行きつけの飲み屋に連れていかれてしまったのであった。
皆で部長をねぎらう会は夜遅くまで続き、その二次会は丁重に固辞。
離脱する権利を得た幸運に感謝しつつ、自分の身代わり羊となった後輩くんへここに哀悼の念を捧げておく。
家に辿り着いたのは、時計の短針がてっぺんに至る少し前といったところ。
終電に間に合ったのは僥倖だった。
築18年という微妙に若さを失ったアパートを前に、これまた若いと主張するには少しムリが出てきたサラリーマンが1人、買い物袋をぶら下げて立っている。
言うまでもなく、自分のことである。
近所のスーパーはなんと深夜2時まで営業してくれているので、自分のような人間には大変ありがたい。
スーパーの方角に足を向けて寝たことがないくらいである。
袋を揺らすと、ガラガラっという金属音。
念のため、胸ポケットから出した臭い消しのタブレットをもう一口。
酔って…………は、いないはずだ。たぶん。
よし、ぬかりはない。
そうして一通りのチェックを済ませてから、アパート2階の廊下の奥、つまり自分の部屋のドアを開ける。
……うむ、暗いな。
しかも、雨戸もまだ閉まっていないぞ。
これはいったいどうしたことか。
少しへたった革の靴を脱ぎ捨て、お姿を探す。
探す。
探す。
念のため、トイレのフタまで開けてみる。
どこにもいない。
こりゃああれかな、お外に出てらっしゃるのだろうかな、と思いつつ、ひとまず窮屈なスーツを脱いでしまおうと考える。
そしてクローゼットを開けてみれば、そこにいた。
「……んゅ…………ぷふぅ…………」
まるっとしたネコっぽい顔に、とてもしなやかで小柄なネコっぽい身体つき。
時たまピクリとはねる至極ネコっぽい耳に、むゆむゆといった感じでネコっぽく動く口が愛らしい。
というか、わりとネコ成分多めのお姿である。
実にネコっぽい容姿に振る舞いの、人型の魔物……いや、魔物娘。
種族としては、ケット・シーにあたる。
しかしまあ、なんとも平和な寝息を立てて、クローゼットの下部にある棚の中に入っておられる。
ただ、引き出しをガン開けしたまま、自分の男くさい靴下が詰め込まれた棚に潜り込んでいるのはいかがなものか。
雑に畳まれた靴下の間からお顔だけニュッと出てるから、少し驚いてしまったじゃあないか。
脱ぎかけだったスーツはハンガーに掛けて脱臭スプレーを噴霧し、さらに室内干しの刑に処し、自分はワイシャツ一丁の姿になる。
それからクローゼットに陣取ったお方をどうにかすべく、開いていた棚から覗いている寝顔をふにふにと突っつく。
とてもやわらかい。
アゴの下辺りとか、特にふにふにだ。
…………だが、起きない。
これは、仕方あるまい。
あまり本意ではないのだが、と棚をゆっくり開け、ふさぁっとした毛並みの両ワキを掴んで引っ張り上げさせてもらう。
うわ、身体がにょーんと伸びた!
ネコってすごいな!
しかしそれでも起きる様子がないため、当社比1.5倍くらいにだらーんと伸びきったのを、奥の居間までUFOキャッチャーのクレーンのように運んでいく。
最近新しく変えた柔らかい毛のカーペットにうやうやしく横たえてから、自分はPCを取り出してちゃぶ台の上へ置く。
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