独特な薬品のような匂いが染み着いた、病院の中。
部屋の前のプレートに部長の名前が入っているのを確認し、小さな個室の扉をノックしてから、声を出して呼びかける。
「いいですか」
「……ああ」
感情も抑揚もない、ただ音を出しただけのような声。
それでも返事が聞こえたのを確認して、俺は病室に入った。
「……間違っていたら、すまない……亮真君か?」
「はい、部長」
両目に白いアイマスクのような物をつけた部長はゆっくり上半身を起こし、俺の方を向く。
病院着の下の、元から痩せていた体型は、さらに細く白くなったように見える。
彼女の背もたれになるよう俺はベッドをリクライニングさせたあと、ベッドの隣に丸椅子を持ってきて腰掛けた。
「そうか……意外と、私の耳も捨てたものではないらしいね。
君の声だけは、聞き間違えたくないから」
病院に搬送されてから数日後、部長はなんとか平静を取り戻したらしい。
俺が声を掛け続けてなだめるまで彼女は、言葉にならない悲痛な呻き声を漏らし、ずっと錯乱していた。そんな部長を見ているだけでも、俺には耐えられなかった。
「ああ、部長。そういえば、その。
つまらない物ですが、お見ま……贈り物を、持ってきたんです」
「えっ? ……そうか、ありがとう。他でもない君のプレゼントだ、喜んで受け取るよ」
そんなことを話しながら、俺は今日、朝にあった出来事を思い出していた。
―――――――――――――――――――――――――――
朝起きて簡単に朝食を済ませ、俺はすぐに出かける支度をする。
今日は休日なので、いつもより長く部長の傍にいられるだろう。
そしていざ外に出ようとしたところで、お見舞いの品を何も用意していないことに気づいた。
「……部長の、好きなもの」
その時、俺はようやく気付いた。
俺は部長の事を、奈津愛という女性の事を何も知らない。
あんなに長く顔を合わせて、彼女を見ていて、一緒にいたはずなのに。
「……ああ、そうか」
俺もまた、彼女を見ようとしない者の一人だった。
好き勝手な噂と色眼鏡で彼女を見るだけの周囲と何ら変わらなかった。
彼女は絵描きであるずっと前に、女性で、まだ十代の女の子であることさえ、俺は忘れていたのだ。
「分かるわけがない……か」
それでも手ぶらで行くことはできず、自転車に乗りながら思案する。
部長と言えば何か。
絵具。キャンバス。新しいスケッチブック。
一瞬だけ絵に関するものが浮かんで、すぐに却下する。
――そんなもの、今の彼女に渡せるわけがない。
結局俺ははっきりと答えが出せず、病院までの道筋にあった果物屋に寄った。
自転車から降りて店先に立つと、すぐに店主らしき大人の女性が出てくる。
「いらっしゃーい。何にします?」
「……えっと。高校生ぐらいの女の子に渡すつもりなんですが、どういったのがいいでしょうか」
それを聞いたところで、この店主に正解が分かるわけがない。
俺はそんな事すら思い至らず、言ってから自分を恥じた。
「うーん、どういう贈り物かしら?ただのプレゼント?」
「いえ、お見舞いの品です。その、目の病気で、入院してまして」
「まあ……それは大変ね」
「……もう目が治ることはないだろうと、医者が言ってました。
だから、その、何を渡すべきか思いつかなくて」
言うべきではないかもしれないが、ついそんなことまで口走ってしまう。
俺が店主から視線を外すと、うーん、と少し唸ってから彼女は言った。
「病院へのお見舞いなら、賞味期限とか衛生のこととか、色々問題があるの。生の果物は止めておいた方がいいわねぇ。
ウチは一応フルーツジュースも扱ってるから、それを持っていくのはどうかしら」
「……そうですね、そうします」
そう言って店主は奥のほうにあるコーナーへ俺を呼んで、色んなフルーツジュースが入った箱を紹介してくれた。
「これなら、細かい好みが分からなくても大丈夫かもね」
「はい、ありがとうございます。じゃあ、これをください」
お金を払い、箱を紙袋に入れてもらったところで、店主が言った。
「――そうそう。もし興味があるなら、これも」
「え?」
そう言って彼女が取り出したのは、二つ折りのパンフレットのようなものだった。
「この世界には、医学では治せないものもたくさんあるわ。
でもね、信じる者はちゃんと救われるようにできているのよ。
あなたがお見舞いに行くその女の子も、きっと良くなるわ――」
パンフレットを見ていた目線を店主の顔に戻すと、そこにはさっきと同じ人物とは思えないほど妖艶な、かつ獰猛な顔つきがあった。
美しいとしか形容しようがない、人間ではないのかと思うほど、た
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