「……(あむあむ)」
「あの」
「……(かぷかぷ)」
「ねえ」
「……(がじがじ)」
「サーシャさん?」
僕が名前を呼ぶと、ようやく彼女は口を動かすのを止めて、僕の顔を見た。
「あぐあぐ……どうかしたか?」
変哲のない単身者用マンションで、僕と彼女は一ヶ月前から暮らすようになった。
僕はいたって普通の大学生だが、彼女、サーシャさんは女性ではあっても人間ではない。
彼女は『マーシャーク』という魔物だ。
鋭そうなぎざっとした歯や鮫肌など、サメの特徴を持った人魚、というのが近いだろう。白目の部分が黒くて、金色の瞳という特徴的な眼もその一つだ。
「ずーっと気になってたんだけど……どうしていっつも僕の手を噛んでくるの」
「これは……その、あたしらマーシャークの習性みたいなモンだ」
「ホネを齧る犬じゃないんだから……」
「そっ、そーいうんじゃねえよ!一緒にすんなっ!」
鮫のような鋭い歯を見せて威嚇してきたかと思うと、彼女はぷうっと小さく頬を膨らませる。
「ともかく、手を噛まれてるとパソコン触るのに困るから、ちょっと離して」
僕が強引に彼女から自分の左手を引きはがす。
すると名残惜しそうに上目づかいで僕を見た――かと思うと、
「あ。じゃあ、腕ならいいよな!」
「ダメ」
とか言って、今度は僕の二の腕を噛もうとしてくる。
サーシャさんと海で出会って助けられ、なぜか流れで初めて噛まれたときのように赤い飛沫こそ出ていないが、むずむずして仕方がない。
あの時は……強烈な疼きと熱さに襲われて、そのまま彼女に食べられてしまった。もちろん性的な意味で。
「じゃあ、どこならいいんだよ」
「今は忙しいから後で」
指の先っぽですら噛まれていると変な気分がこみ上げてしまうのに、腕まで噛まれたらどうなるか分かったものじゃない。
結局僕の長袖が捲り上げられなくて邪魔になり、どこも噛みにくいと判断したようだ。
「……ちぇっ」
まさしくお預けを食らった犬のようにしゅんとする彼女。
それを見ると、流石に悪いことをしてしまった気分になってくる。
「……レポート終わらせた後ならいいよ」
「! じゃあ終わったら、サカナ食べよう、サカナ!」
分かりやすく表情がぱあっと変わる。本当の姿でなら、ぶんぶんと尾を振っている所だろう。その光景が目に浮かぶ。
サーシャさんは魔物で、本来は人魚のような身体なのだが、今は人化の魔法とやらで人の姿になっている。見た目だけならどう見ても人間だ。
人間になった彼女は僕より少し背が高いし、肉付きもスタイルもいい。
でも服はファッション以前の問題で下着すら身に着けてくれず、着るのは大体黒いシャツと青のジーパンだけ。豊かな胸がシャツから透けて見えたりこぼれ出てしまわないかといつも心配になる。
「もう冷蔵庫には残ってないから、スーパーに行かないと」
「わかった!あたしもついてく!」
ただ、その見た目に反して中身は子供っぽいので、なんというかアンバランスである。
年齢が気になるが、流石に女性には面と向かって聞きづらい。『アンタよりは上だから、あたしがお姉さんだ!』とは彼女の弁だが。
「でもサーシャさん、歩くのは苦手でしょ。すぐに転びそうになるし、危ないよ」
ただ、人間の姿には成れても、慣れてるわけではないらしく、勝手が違うのか二本の足で歩く姿はどこかたどたどしい。
普通に歩くだけならともかく、階段や坂道ではよくバランスを崩して転びかける。
「やだ、一緒に行く!あたしがちゃんと守ってやらないとだからな!」
「……大丈夫かなあ」
相変わらず隙を見て僕を噛もうとする彼女を制しながら、課題のレポートを片付けていった。
「今日はいっぱいサカナが買えてよかったな!」
「うん、特売で安くなっててラッキーだったね」
結局レポートが終わった後、二人で買い物に行って食材を買ってきた。
案の定サーシャさんは何度か転びそうにはなったものの、僕が手を繋いで引いていくと途端にそれはなくなった。
不思議な話だが、彼女にもしものことがなかったのは幸いである。
あと、学校の制服を着た変わった女の子に「かっこいい、特に歯が」と言われたからか、サーシャさんはわりと上機嫌にもなっていた。
「じゃあ、今日もあたしが料理だ!あっちで待ってろよ!」
「うん、じゃあ頼むよ。後片付けは僕がするから」
彼女は魔物ゆえに生でも頭から魚を食せるが、流石に僕はそうはいかない。
”料理”という言葉すら知らなかったはずの彼女は、最初の最初こそまともな料理は作れなかった。
しかし、料理の基本知識やレシピを書いた本を渡すと、熱心にそれを読んでくれて、その次からは少なくとも食べられる物を出してくれるようになった
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