もう少しだけ勇気が欲しい

 僕のそばにある大樹の葉が、緩やかな風にそよいで揺れている。
 どこまでも続く緑が見渡せる丘の上で、僕は今日もひとり、フルートを吹く。
 僕の住んでいる町から離れたここは、僕のお気に入りの場所で、僕だけの練習場だ。
 とてもじゃないけど、僕の演奏はまだまだ他人に聞かせられたものじゃない。
 だから誰かの前で曲を吹いたことも、まだない。
 自分の演奏を誰かに聞かれるのが恥ずかしい僕は、わざわざいつもここまで来て練習する。
 もちろん、草原が横たわるこの景色が綺麗だから、というのもあるけれど。

 特に気を入れて練習している曲が終わって、僕は一息つく。
 その時突然、頭の後ろに何かが当たったのを感じた。
 木の葉か何かだと思ったけど、よく見ると僕のそばには紙ひこうきが落ちていた。 
 誰が投げたんだろう、と思って周りを見渡してみるけれど、誰もいない。
 
 よく見るとその紙ひこうきには、何か黒い物で文字が書いてあった。
 気になった僕は、手に取って紙を開いてみる。
 その紙には、子供が書いたような下手な字で『へたくそ』と書かれていた。
 
 誰が書いたのかは分からないけれど、僕は少しムッとした。
 練習中の曲なんだから、音が外れるのも仕方ないじゃないか――と、この紙飛行機を投げた人間に、心の中で抗議する。
 これを投げたのが誰か突きとめたいけれど、その相手に直接言い訳をするのも気恥ずかしい。
 僕は少し考えた後に、自分が一番自信のある曲を吹くことにした。
 ちゃんと吹ける曲だってあるんだぞ、と、その人物に教えるように。

 なんとか間違えずにその曲を吹き終わると、また僕の後ろ頭に紙ひこうきが当たった。
 もう一度僕は周りを確かめるけれど、やっぱり誰もいない。
 フルートを置いて中を開いてみると、やはり下手な字で『やるじゃん』と紙に書かれていた。
 たったヒトコトだけど、僕はその言葉にちょっと嬉しくなる。

 それからその紙をよく見てみると、僕はある事に気がついた。
 この紙は楽譜で、その裏に文字が書いてある。しかもその楽譜は、前に僕がここでなくしてしまった物だった。
 
「……誰なんだろう」

 折り跡のついた楽譜を見ながら、誰に言うでもなく僕はつぶやく。
 もし紙ひこうきを投げた相手がいるとしたら、僕の傍にある大樹の後ろだろう。
 でも僕は、それを確かめてみようとまでは思わなかった。

「誰か分からないけど、ありがとう。ちょっとだけ自信出たよ」

 見えない誰かに答えるように、僕は言う。
 けど、どこからも返事はなかった。


 それから三日後。
 また僕は草原の広がるいつもの丘で、木に寄りかかってフルートの練習をする。
 何曲か吹いていると、前みたいに紙ひこうきが飛んできて、僕の頭へと当たった。
 『あたしのうた きいてほしい』と、その紙には書かれていた。
 この紙も僕がなくした楽譜で、やっぱり下手な字だったけど、ちょっとだけ上手になっている気がした。
 それを読んだ僕は、聴かせてよ、と答えてみる。
 少しだけ間をおいて、大樹の向こうから、メッゾソプラノの綺麗な声が流れてきた。
 僕はその美しい声を聴いて、むかし両親と見に行った演劇に出てきた、男装をした麗人の歌声を思い出した。
 芯があって重みのある、どちらかというと格好の良い声。
 だけど子供のようなあどけなさも、その声の中にはあった。
 そしてさらに、彼女が歌っているのが、僕の無くした楽譜の曲だということにも気が付いた。
 曲が終わると、僕はその子に聞こえるように拍手をする。
 
「すごい。あんまり上手だから、びっくりしたよ」

 僕がそう言うと、さっきの歌声とは違った優しい声で、「ありがと」と聞こえた。
 その声でようやく僕は、大樹の向こうにいるのが女の子だと気づいた。
 この樹の裏側にいるのは、一体どんな子なんだろう?
 見に行って確かめてみたかったけれど、それをしてはいけないような気がした。
 
「君は、よくここに来るの?」

 そう僕が聞くと、

「うん」

 と、あの子が言った。
 
「僕も、練習する時はいつもここに来るんだ。
 誰かに聞かれるのが恥ずかしくて、遠いのに、わざわざここまで来て練習しちゃう。
 けど、君と会ってから、やっぱり誰かに聴いてもらいたくなって。
 この前、勇気を出してみんなの前で吹いてみたんだ」

 手元でフルートをいじりながら、僕は続ける。

「そしたら思った以上に褒められて、もうなんだか、どんどん練習したくなってきちゃって。
 わざわざここに来る時間も、惜しくなっちゃうぐらい」

 すると僕の言葉の後に、

「じゃあ……もうオマエは、ここに来なくなっちゃうのか?」

 という、弱々しい、悲しそうな声が飛んできた。

「……そうでもない
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