彼女はゲイザーでありながら、これまで一度も精を口にした事がないと言った。
それは一体どれほど稀有な例なのかと知り合いに問うと、「白ご飯を食べたことがない日本人」ぐらいだそうだ。食に関心の強いグールである彼女らしい答えだと思う。
つまりそれは懇ろになった相手もいないし、そういう行為を行った相手もいないという事だ。
本来ゲイザーは男性の精を糧にする好色な魔物娘のはずなのに。
「じゃあ、子供の頃は?」
「さあ。薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたような気もしますね」
読書好きな彼女らしいごまかし方ではぐらかされて、それから彼女が続ける。
彼女の外見で最も目を引くであろう、赤く大きな一つ目が僕を眺めていた。
「私が食べてきたのはたぶん人間が口にするような食べ物ばかりでしたけど、今の所健康に異常はありません。
人間にも野菜しか食べない人がいるそうですから、偏る、という事自体は魔物である私にも有り得る話です」
研究室のベランダにある手すりから彼女はどこか遠くを眺めた。
キャンパスから外向きにあるここからは穏やかな風が吹いて、周りを囲む山や木々などの豊かな自然が見える。彼女が住んでいたという洞窟がこの近くであるのをふっと思い出した。
ふっと風が吹き、黒く長い髪が緩やかに揺れる。
飾り気のない真っ黒なジャケットを彼女がそっと脱いで椅子に掛けた、上着の下には地肌と同じくらい白いブラウスを着ている。雪のように白い彼女の肌はとても異質で、人間の肌とはまた違った艶めかしさがあった。
「もしかすると、」と彼女は付け加え、
「体の構造そのものが変化しているのかもしれません。
魔力というのを、実は私自身もよく分かっていなくて――それを意識したことが今まで、私の人生になかったんです。
私の一つ目には、それはそれは不思議な力があるらしいですけれど……知っていますか?」
もちろん、と僕は答える。
ゲイザーという種族は本来、その一つ目で男性に暗示を掛けて好意を持たせることで精を得る。
糧を得る為の武器、ライオンの牙と同じようなものだ。
「私は、それを使った事がありません。本を読んで初めて知りました。
だから人間と同じみたいに、人間の食べ物を食べていても飢えなかった、かもしれませんね。
魔力という物をそもそも意識していないのですから」
同じようにベランダから景色を眺めていた僕は彼女の言葉へ耳を傾ける。
手すりに添えられた彼女の手は真っ白で、僕が昔に本で見たゲイザーの姿とは異なる。
本来ゲイザーは魔力の保護膜で体を守っており、手足はその膜のせいで真っ黒いはずなのに彼女は違う。その差異は彼女の口から言われずとも分かった。
「……でも、自分の事さえ知らないのに、これから誰かと愛し合う事が出来るんでしょうか。
自分の力もよく分からないまま、大事な何かをいつか逃してしまうんじゃないかって――。
それだけがずっと、不安で」
いつも控えめな声はさらに小さくて、風に掻き消されてしまいそうだった。
初めて彼女と会ったのは、ぼくが大学に入って一年後のことだ。
魔物娘という存在はぼくが子供の頃に認知された存在だそうで、昔は色々と騒ぎがあったと聞いている。でも、なにぶん子供の時なのでよくは覚えていない。
中高と学校に通うあいだも魔物娘を見かけることはあったけど、僕にとってはたまに見かける外国人程度の意識でしかなかった。
大学生になった僕は実家を離れ一人暮らしをしながら大学に通い、心理学科の専攻を取っていた。二回生に上がってゼミに入った時、僕は初めて彼女と出会った。
大学に通う魔物娘、というのもそれなりに珍しいのだけど、それがゲイザーという種族なら尚更だろう。
彼女は普段から人間と同じような服を着て、特徴的なその黒い触手は(どういう方法かは分からないが)見えなかったし、派手な格好もしていなかった。真っ赤な一つ目だけは目立っていたけれど、それ以外はまるで人間のようだと、僕はそう思っていた。
だから、精を口にした事がないという彼女の話は意外に思いつつも納得できたのだ。そして「珍しい」という印象もあって、一つ目の女の子、という程度には彼女を覚えていた。
教室に来ればいつも真面目に講義を聞いている、誠実そうな女の子だったということも。
彼女と初めて話したのは僕が研究室にいた時の事で、そのときは一人でレポートに取り掛かっていた。
「すみません。少し見学してみたいんですが、その、よろしいでしょうか」
ノックをしてから丁寧にお辞儀をして、彼女はそう言った。
体つきは他の女の子と比べても細く小さく、背丈は僕の肩ほど。それに一つしかない目が大きいせいか顔が小さく見えて、より幼く感じ
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