宿のチェックインを終わらせ、荷物を置き革鎧を脱ぐ。
久しぶりの柔らかいベッドに俺が座ろうとしたその瞬間、洗面所の方から、食器を割ったような大きな音が鳴った。
またやったのか、と頭を掻きながら、俺は洗面所への扉を開ける。
予想通り、洗面所の中にある一枚板の鏡には無数のヒビが入っていた。床の上に散らばった鏡の破片が電灯の明かりで煌めいている。
もうまともに物を映さなくなった鏡の前で、あいつはどこを見るでもなく、ぼーっと佇んでいた。
「――また、やっちゃった」
あいつは魔物であり、子供のように小柄で人間らしい体格と、人間ではあり得ない灰のような肌の色をしている。
服や下着は一枚も身に着けておらず、代わりのように胸や股間、腕や足には結晶のような黒い何かが付着している。その肘から手と太ももは、まるで手袋や足袋を着ているみたいに真っ黒い。
背中から何本も伸びる、先端に目玉のついた黒い触手もまた、人外である事を主張する。
極めつけに、顔の真ん中に埋まった赤く大きな一つ目。
どこから見ても人間ではないその顔が、黒髪の下でそっと俺を見た、ような気がした。
そしてそのまま俺の方に歩いて近寄ってこようとするので、俺は掌でそれを制する。
「いいから動くな。すぐに掃除するから、」
その時、誰かが駆け上がってくる音が聞こえた。
おそらくこの宿の人間だろう、あれだけ大きな音があったら確かめに来るのは当然だ。
部屋の扉が勢いよく開いて、さっきチェックインする時に会った、髭面で体格のいい主人が現れた。
「おい、なんだ今の音は!」
怒号のような大声が部屋に響いて、同時に洗面所からあいつがのっそり出てくる。
その表情は能面のようで、ばつが悪い顔も、悲しむような顔もしていなかった。
「鏡」
ぼそっとあいつが言って、洗面所の中をそっと指差す。
洗面所から出てきたあいつと、鏡が散乱した部屋の中を訝しむような顔で宿の主人が見比べる。
その事情を察したらしく主人はいかにも不機嫌そうな唸り声を出して、今度は俺を睨んだ。
「――ったく、だから俺は魔物を泊めるのはよせって言ったんだ。
おいアンタ、この鏡の弁償代見積もらせてもらうぜ」
「……『最初から、割れてた』」
「なに?」
あいつが主人の言葉に口を挟む。
睨みを効かした主人の鋭い目線と、あいつの赤い一つ目が、ばっちりと合っていた。
「『来た時には、もう、こうなってた』」
「……え、」
さっきまで怒っていた主人の表情が歪み、口が少し開いて、眉が曲がる。
自分がしようとした事を、これから何を言おうかを全て思い出せなくなったような、呆然とした表情をした。
ずい、とあいつが主人に詰め寄る。もう目は合っていない。
「早く、掃除してよね」
「す、すまん。忘れてたみたいだ。
いやあ、前の客がひどいヤツでな……ああ、今すぐ片づけるよ」
主人は小さく俺に頭を下げて部屋を出ていく。
それからすぐに掃除用具を持ってきて、散らばった鏡の破片を片づけだした。
言うまでもなく、鏡を割ったのはあいつだ。俺がさっき顔を洗った時は、鏡はちゃんとそこに嵌って俺を映していたんだから。
つまり、あいつが誤魔化した。
それが”ゲイザー”である彼女の魔物たる能力。記憶や思考を操る魔法をいとも容易く扱って、人間を惑わせる力だ。
彼女の一つ目と眼が合うと、それだけで”暗示”が刷り込まれてしまう。
主人は俺に小さく頭を下げて、集めた鏡の破片を袋に入れて持って行った。
あいつの一連の行動に口を挟むわけでもなく、俺はただ独りごちる。
「まったく」
―――――――――――――――――――
俺があいつと出会ったのは、確か一週間前ほどになる。
切っ掛け、というほどの事もない。
雨避けのために俺が洞窟の中へ入った時、そのほんの少し奥で、岩の上にあいつが座っていた。
暗がりな洞窟の中でも、背中から伸びる触手に付いた目達や、赤い一つ目は目立っていた。火が灯っているかのように、自分がそこに居ると眼が主張していた。
俺より先に気づいたはずのあいつは、俺を見ても何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
あいつが魔物である事も、それが”ゲイザー”という強大な魔物である事も知っていた。知っていたが、気づいた時にはもう目が合っていた。
彼女がその気になれば、俺は簡単に手玉に取られるだろう。自分でも分からないうちに――もしかしたら、もうすでに。
冷たい洞窟の空気が、緊張で熱くなった俺の額を撫でていた。
目が合ったのは、ほんの数秒だ。
すっと彼女が立ち上がって、俺に近づく。思わず力が入って俺は握り拳を作っていた。
まだ逃げおおせる可能性はある。少なくとも身体は動
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