突然、僕は味が何一つ分からなくなった。
大学生になり、独り暮らしを始めてから二年が経った頃。
僕には友人はおろか、一緒にご飯を食べる相手さえいなかった。
田舎から引っ越してきたばかりの僕に知人は一人もおらず、大学の雰囲気に馴染めずオロオロしている間に仲の良いグループはもう出来上がっていた。人見知りの僕はグループに割って入る勇気を持てず、必要最低限の事しか口にしない生活が続き、次第に僕の日常は色褪せていった。
だからもしかしたら、そのせいなのかもしれない。
レストランで口に運んだステーキが、何の味もしなくなったのだ。
まるで粘土を噛んでいるように味も匂いも感じられず、僕は呆然とナイフをテーブルに置いた。
それから何を食べても飲んでも、口の中を食べ物が通った事しか分からない。
病院に行ってもそれは栄養の偏りだなんだと言われるだけで、治る兆しを見せないまま、はっきりとした原因すら分からず、半年が過ぎた。
最初は、すぐに治るだろうと気に留めないようにしていた。痛いわけでも、栄養を取れないわけでもない、大丈夫だ、と。
けれど少しずつ、言いようのない憤りと不安が僕を襲ってくるのだ。
なぜ僕だけが、味気のない食事をしなければいけないのか。
レストランで仲良く食事をしている家族を、親密そうに話す男女を見るたびに、羨ましくなって、たまらなくなる。
僕も、ちゃんと美味しいと思いながら食事がしたい、と。
ある日の帰り道、月のない夜。
清掃のアルバイトを終えて、人気のない静かな路地を僕が歩いていると、大きなフードで顔を覆った誰かに突然、肩を叩かれた。
振り向くと、見覚えのない姿をした人が立っていた。暖かそうなもこもこしたコートを着ていて、フードが口より上をすっぽり隠している。背は僕より少し低く、顔はフードでよく見えないけれど、頬あたりまで伸びた黒髪が薄暗い街灯に照らされていた。
声とその外見から僕が分かるのは、それがおそらく女性、ということだけだ。
「ちょっといいかい、お兄さん」
背は小さいけれど、声は少し低くどこか凛々しい響き。微笑んだように歪んだ彼女の唇は、暗い夜道でもどこか艶かしく見える。
ほんの少し自分のフードをずらしながら、彼女が言う。
「行くトコなくてね、”知り合い”のよしみってコトでさァ、今日寄ってもイイか?」
「え?」
その下にある顔がちらりと見えた瞬間、何か違和感があったけれどよく分からない。
それに彼女は知り合いだと言ったが、僕にはまったく覚えがないのだ。
でも、
「あ、ああ……散らかったままだけど、いいかな」
「よーし、じゃあ行こうぜ」
誰かも分からないのに、いやそもそも彼女の顔さえ僕は見てないはずなのに、何故か二つ返事で僕は了承してしまった。
それどころか僕は彼女に、まるで幼馴染のような、奇妙な親近感を覚えていたのだ。
そんなのあり得ない事だと思いながらも、僕は疑問を口に出せなかった。
フードを被った女の子は僕の住むアパートに上がると、僕が何か言うより先にコタツテーブルに座って、お尻から下をコタツの中に潜らせている。彼女はきょろきょろと部屋の中を見回しながらも、僕が座るのを待っているように見えた。
彼女のことを不思議にも不自然にも思いながら、とりあえず二人分のお茶を出して僕もテーブルに着く。
一緒に、さっきコンビニで適当に買ってきたお弁当もテーブルに置いた。
「んー? それ、オマエの晩ゴハンか?」
壁にもたれながら彼女が言った。うん、と頷いて、僕は答える。
少し前までは自分で料理も作っていたけれど、味も何もわからないのに料理を続けようなんて気にはなれず、いつの間にかぞんざいな食事ばかり取るようになっていた。
どうせ、何を食べたって同じなのだから。
「なあんだそのわびしいメシ、もっと精のつくモンないのかよ」
「……ああいや、その。 食欲なくて」
「ったく、元気もなんかなさそうだなァ。
疲れてるヤツの方が”暗示”は掛けやすいけどさ、体力つけてもらわないと困るんだよ」
暗示、という言葉の意味はよく分からなかったけど、僕はそのまま続ける。
「……やっぱり、そう見えるかな。
最近何を食べても、味がしなくて……正直、何か食べるのも億劫なんだ。
身体はどこも、悪くないのに」
「あぁ? オマエ、そんなんで……んー、そうだ、良いコト思い付いた。
アタシが美味いモン、食わせてやるよ」
「え……、でも僕は、」
「いいからいいから――ちょっとこっち、見てみろよ」
どういう事だろうと思いながら、言われた通りに彼女を見ると、彼女は自分の大きなフードをゆっくりと外した。
癖の付いた長い黒髪がぱらりと舞って、その下にある顔が露わにな
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