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「お兄様は、きっと馬鹿なのですね」
仁見(ひとみ)はノートに書かれた俺の答えを見て、事も無げにそう言った。その表情はお嬢様のような王子様のような、中性的かつ優雅な微笑みを湛えたままである。
〇〇高校の校舎内、テスト期間に入ったことで少しだけ人の多い放課後の図書室。その中の、騒がしくしない程度の私語が許される自習スペースに、俺たちはいた。
「シンプルに傷つくな」
面子を保つために感情を込めない声で俺がそう言うと、彼女はくすり、とまた小さく笑う。
「どうもボクは、お兄様のその顔を見るのが好きみたいです」
落ち着いて澄んだ声色だったし、その灰色の瞳には侮蔑や罵倒の意こそ感じなかった。が、妹に言われるのはどうであれ堪える言葉だ。
少なくとも俺は”お兄様”だなんて呼ばれるほどの兄でも、よく出来た人間でもない。ただ、仁見は妹ではあるが『義理の妹』である。だから俺と同じ学年で、同じ課だ。クラスまで同じなのは教師側の怠慢と言えなくもないが。
仁見の背は俺と同じくらいで、痩せ型だと自称しているが、不健康という程の体形でもない。肩まである黒髪はいつも二つ結びにしていて、指定制服の紺のブレザーとよく似合っていた。肌が色白く、灰色の瞳と合わせると珍しいのだろうが、あまりその点で特別だとは意識したことがない。
「さて、俺を罵倒した詫びはあるのか」
「ええと、確か、」
真白く細い仁見の指がゆっくりと教科書をめくり、公式の一つを指さす。
「先ほどの問題ではこの公式を使うべきでしょうね。
お兄様の使っていたものでも可能でしょうが、速さも効率も劣ります」
「ふむ」
「それに次の応用問題では――」
義理であれ兄妹というのは反転する定めなのか、仁見は俺と違って数学が得意だ。
反対に苦手な俺は、こうして恥を忍んで妹である仁見に勉強を教えてもらう機会がとても多かった。教え方は丁寧で卒がなく、はっきり言ってそこらの教師より上手いと思える。
「さて、分かりましたか、お兄様?」
「ああ、大体わかった」
「なるほど、分かってませんね」
「……傷つく」
そうして俺の方の復習が一段落すると、仁見は俺に質問をする。
「お兄様、この英文法の使い方は合っていますか?」
「ん……これはどっちかというと固い言い回しだから、友人関係ならこっちの方かな」
「ああ、なるほど……流石ですね、お兄様」
「覚えるのだけは慣れてるからな」
「そうだといいですね」
「そこはちゃんと褒めてくれ」
「ふふっ」
俺はそれなりに得意、という程度には英語の成績がいいが、仁見は苦手である。とはいっても彼女だって平均点は取れているし、言われたことは驚くぐらいにすっと理解する。つまり単にやる気がないだけだろう。
「おっと……悪いが仁見、シャープペンの芯あるか?Bで」
「ええ、もちろん。はい」
「助かる」
素っ気ない黒のペンケースから出された芯入れを受け取ると、仁見の白い指が俺の手に触れる。少しひやっとしていて、女性らしい丸さがあった。
「――ああ、もうこんな時間ですね。そろそろ帰り支度をしましょう、お兄様」
「おっと、そうか」
勉強に没頭していたところを仁見に促され、勉強道具を片しながら話す。
周りが見えなくなって何かに没頭してしまうことがたまにあるので、こうやって誰かが傍に居て、俺を促してくれるのは有難い。
高校に入ってまだ半年程度だが、俺はその以前から小中高と部活にも入らず、クラスにも友達と言える存在がほとんどいない。教師も教え子の成績は見ていても、交友関係には熱心ではない。
そんな中、仁見は学校での俺の支えであると言っても過言ではなかった。
「帰り道には喫茶店でもどうですか?」
「帰るも何も、俺はともかくお前はここの女子寮住まいだろ。
だいたい、不良生徒の考えだなそれは」
「勝手に品行方正だと勘違いしてるのは周りですからね」
「その勘違いは……俺のことも含めてか?」
「そっちの方が都合がいいので、否定をしていないだけです、ふふっ。
ああそうだ、今日は苺の酸味が欲しい気分ですね」
「やれやれ、恐喝にまで手を出されるのか。兄ちゃんは悲しいな」
俺は財布の中身を確かめ、隠し切れない溜息をついた後、仁見と手を繋ぐ。
やはりその手は変わらずひやっとしていて少し気になった。
「なんでいつもこんなに冷たい手なんだ」
「それは多分、お兄様に手を繋いで温められたいからでしょうね」
「ロマンチックな答えだ。会いたくて震えてそうだな」
「まさか。震えて待つぐらいなら、こちらから会いに行きますよ」
仁見は会話によく冗句を交えてくるが、虚勢として強がる様はあまり隠せていない。
彼女は末妹である藍(あい)と同じで、昔から病弱で基礎体温も低
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