自分の名前を、まだ漢字で書けなかったぐらいの頃。
家中を探し回って”宝探し”をしていた時に、僕は両親から「勝手に入らないように」と言われていた、家の離れにある古い倉庫に忍び込んだことがあった。
倉庫の中は埃だらけで、電気を付けても暗くて、とても怖い場所だった事を覚えている。
そこで、僕はある人形を見つけた。
その人形はケースの中に入れられていて、棚の一番上の、脚立に登らないと見えない所に置かれていた。
銀色の長い髪と、宝石のような赤い瞳。お姫様のように豪華なドレス。
僕はそのとき一目で、彼女に惹かれてしまった。
学校にいるクラスの女の子たちよりも、テレビや本で見たどんな女性よりも、その人形が魅力的に見えた。
それから僕は、まるで本当の女の子と過ごすように、その人形と接していた。
暗くて怖い倉庫だったけど、僕は彼女に会うために、何度もその中へ入った。
こっそり倉庫に入ってはその人形に話しかけたり、自分で名前を付けてみたり、周りの掃除をしてみたり。
何か話すことが出来るたび、僕はあの高い脚立に登って、その一番上に座ってあの子と話をした。
当然いくら話しかけたって、返事は返ってこなかったのだけど。
ただ一度だけ、僕は彼女を頑丈なケースから出して、その体に触れたことがある。本物の女の子に触るように、ドキドキしながら。
綺麗に螺旋を描く髪が崩れないように、そっと髪を撫でたのを覚えている。
ふんわりとした白いドレスの柔らかさを、マシュマロのようなほっぺたの感触を、今でも僕は思い出せる。
本当はドレスを捲って、下着を脱がして、そこに隠された彼女の肢体を見てみたかった。
前に読んだエッチな本や、こっそり見てしまった女の子たちの身体と、ホントに一緒なんだろうか、って。
でも、いざ手をかけようとしたらどうにも気恥ずかしくなってしまって、僕は寸前で思いとどまり、彼女をまた元のケースに戻した。
――かすかにだけどその時、囁くような声が聞こえた気がした。
僕はその日の夜、彼女の夢を見た。
夢の中では、僕がケースの中にいる人形で、あの人形が僕で遊ぶ女の子だった。
人形の僕は、動くことも喋ることも出来ず、微笑みを浮かべた彼女を見ていることしかできない。
でも、あの人形はまるで人間のように、僕に触れようとする。
いつの間にか僕を包むケースは開いていて、彼女は僕を抱きかかえていた。
僕は人形のはずなのに、あの子の顔が近づくにつれ、頬が熱くなる。心臓がどきどきする。
彼女が僕へ、唇を重ねようとした――その瞬間、夢は覚めてしまった。
事件はそれから、何日か経って起きた。
あの人形が出てきた夢を忘れられないまま、また僕は暗い倉庫の中に入ろうとしていた。
すると、いきなり唸り声のような地鳴りと共に地面が、世界が揺れ始めた。僕は恐怖で足がすくんで、震えていた。
逃げなきゃ。でも、あの子は?
あの子を助けたい。その一心で、物が落ちてくるのも構わず、僕は必死で倉庫の中を進んだ。
見上げると、ちょうど人形のケースが傾いて、宙を舞うその瞬間が見えた。
ケースを受け止めようとしたけど間に合わず、人形は床に落ちていってしまった。
あの子が壊れてしまったかもしれない。
僕は不安を振り払うように、無我夢中で駆け寄ろうとした。
その時、棚が傾いて、大きな音を立てながら人形の方へ倒れてくるのが見えた。
僕はその人形を、その子を助けようとして手を伸ばして――
―――――――――――――――――――――――――
「――人形を売る店?」
同僚である日野さんと僕は、偶然街中で出会った。それで立ち話もなんだからと、僕はたまに行く喫茶店へ日野さんを誘ってみた。
正直、女性を連れて行けるような所で、僕が憩にする店といえばこの『Mell』ぐらいだろう。
ここを気に入った理由はたくさんあるが、とりあえず内装が小奇麗だし、コーヒーの味も申し分ない。
「そ。店そのものはすんごい古くさいのに、その人形だけが綺麗にディスプレイされてて、ショーウインドに飾ってあるの。
で、立ち止まって人形を見てる人は、いつの間にか店の中に入っちゃうんだって」
仕事ではスーツで決めている日野さんも、今日はフリルの付いた茶色のブラウスに黒のスカートとラフな格好だ。
いつもは後ろで纏めたセミロングの黒髪も、今はふんわりと肩に流れている。
肩に下げたバッグにも、なにやらかわいらしい猫のプリントがされていた。
仕事場にいる時の雰囲気とはまた違っていて、僕には日野さんの格好がとても新鮮に見えた。
今日はどうしてたの? という世間話から始まって、ある怪しい店の噂話を日野さんは始めた。
「確かにこのあたりだと店の入れ替わりが激しい区域もあるらしいけど、大分無理があるよね。
けど、あり得ない話じゃないのもホントだし」
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