抱き止めた者

もうこのホテルでどのくらい働いているのだろう。
15歳のころからアルバイトとして働いていることも含めれば、それなりの年月になるはずだ。
それだけ働いていれば、嫌なカンも働く。
「いらっしゃいませ、当ホテルへようこそ」
いつものように琴葉は入ってきた客に挨拶する。
「1泊2日でチェックインをお願いします」
その客が琴葉に伝える。
『・・・なんやろか、この客さん・・・妙や』
応対しながら、その客の見えないところで琴葉は違和感に顔を曇らせた。
その客は太い縁のめがねをし、ダークグレーのスーツを身にまとっている。
年齢は30歳前後と言ったところか。
髪型は丁寧に横分けされていた。
一見、ごく普通のサラリーマン。
だが、彼の荷物はこのホテルに来たにしては妙だった。
宿泊するというのに、ビジネスバッグ一つだ。
下着や着替えのことを考えれば、荷物が少なすぎることは明らかだ。
加えて、今日は平日の水曜日・・・この田舎町で羽を伸ばして過ごすような日でもゴルフで遊ぶような日でもない。
一度疑いだすと止まらない。
彼の顔は病的とまではいかないが青白く、やつれているように見える。
目も少し充血していて、最近安眠した様子がない。
「では、こちらがお部屋の鍵となります。お荷物をお預かりしましょうか?」
「っ・・・いや、コレくらいは自分で運ぶよ、ありがとう」
かすかではあったが、その客は狼狽した。
『・・・怪しいわなぁ』
その客が上の階へ姿を消すのを見届けてから、琴葉は母の美琴を呼んだ。
そして今の客がどこか怪しいのを伝えた。
「ふ〜ん、そら確かに怪しいな。危なっかしいわ」
琴葉の報告に美琴は頷いた。
「大丈夫やろか?」
「安心し。うちがなんとかするさかい」
目をぱちくりさせる琴葉に美琴は不敵に微笑むのだった。




「ん? 戻って来はったか」
日付が変わろうとするころ・・・一通り仕事を終え、従業員の部屋でくつろいでいた美琴の前で紙切れがまるで意思を持っているかのように舞い踊る。
紙切れようだが、これは彼女が放っていた式神だ。
特殊な呪文を書き込んだ人型の紙に自分の魔力を込め、自立性をもった分身のように操ることが出来る。
本体が紙切れゆえにできることは限られているが、自分が何かをしている間に監視役とすることくらいは造作もない。
「ほな、うちが直接出向くとするわ」
私物である赤袴の巫女装束に身をつつみ、美琴は従業員室を出る。
そして、例の客が宿泊している部屋の前に行き、気配を殺しながら、妖術・千里眼で中の様子を伺った。


「こんなところか・・・」
斉藤 幸男は静かに万年筆を置いた。
書いたものを封筒に丁寧にしまう。
そしてかばんをごそごそとあさってあるものを取り出す。
それは包丁であった。
彼は絶望していて、今、自らの命を絶とうとしていた。
先ほど書いていたのは遺書だ。
「ろくなことなかった人生も、これで終わりだな」
包丁を逆手に持ち、自分に向けたそのとき
「失礼します」
京都訛りの女性の声が部屋に響き、返事も待たずにふすまが開いた。
そして青く光っているものがものすごい勢いで跳んできて、幸男が持っている包丁を弾き飛ばす。
「な・・・なんだ君は!?」
死のうとしていたところを邪魔した侵入者を幸男は睨む。
見て驚く。
入ってきた者は赤い袴の巫女装束を身にまとった女性であった。
現代のジパングの服にしては、ましてこのホテルで過ごす服としては少々場違いだ。
おかしいのはそれだけでない。
その女性は側頭部から黄金色の獣のようなとがった耳が生えており、腰からは同じく黄金色のふさふさの尾が5本生えていた。
コスプレにしてはリアルで、しかも動いている。
「だ・・・誰だ君は!?」
「うちはこのホテルに住む稲荷の美琴と申します」
癖が強い京都弁でその女性は答える。
『稲荷・・・?』
幸男は魔物のことは聞いたことはあるが見たことなどなく、伝承だけの存在なのではと疑っていた。
それが今目の前にいる。
『夢なのかな?』
頬をつねってみる。
痛かった。
『それでも夢なのかもしれない・・・稲荷といえば・・・そういえばこのホテルの中庭には稲荷神社があるんだっけ?』
幸男は考える。
「お客さん、何をしてはるんですか?」
美琴と名乗った稲荷が話しかけてくる。
いつの間にか包丁は彼女の手にあり、横では青い炎がぷかぷかと浮いていた。
どうやら幸男の包丁を弾き飛ばしたのはその炎だったようだ。
「くっ・・・返せ! 僕はここで自殺するんだ!」
幸男は美琴に襲い掛かったが、美琴はそれをふわりとかわす。
「なんや恐ろしいこと言いなはって・・・自殺なんかしたらあかんでっしゃろ?」
「うるさい! お前に何が分かる!」
幸男が怒鳴ると、美琴はもともと切れ長で鋭い目をさらに吊り上げて睨んだ。
思わず幸男は黙る
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