手早くシャワーを浴び、デニムのショートパンツとピンクチェックのキャミソールといった格好に着替える。時刻は夜の9時を回ろうとしている。お腹が空くわけだ。とりあえず何か作ろう……そう思って私は冷蔵庫のドアを開けようとした。
その時だった。がしゃんと外で何か大きな音がしたのは。まるで、自転車か何かが倒れたかのような音であった。いや、実際に倒れた音なのではないか?
それからしばらくして玄関のベルが鳴った。こんな時間に誰だろうか。微かに私は眉を寄せた。警戒心を高めながら私はインターホンのモニターを見る。そして驚いた。
玄関の前にいたのは久保田知城であった。先ほどの自転車の音も彼の物だろう。傘も差さずに自転車を飛ばしたようだ。濡れている。
いきなりドアを開けずにインターホンを押したのは夕方とくらべて大変結構だが、こんな時間に、それも雨の中どうしたと言うのだろう。私はインターホンの通話のボタンを押した。
「はい」
「……こんな夜分に恐れ入ります。か……玲亜さんの友達の久保田ですが……」
「私よ」
意外に流暢に離す知城に少し呆れながら私は応える。いや、よく考えてみたら弓道の先生や、学校の先生には普通にしゃべっているのだから当たり前なのだけれども。
私の声を聞いた知城の表情と声が硬くなる。が、彼はすぐにまた話しだした。
「加賀美……夜遅いけどどうしても直接会って話したいんだ。開けてくれないか?」
「ちょ、ちょっと待って……」
「待てない」
すぐに返ってきた言葉に私は息を呑んだ。夕方のときのはっきりしない態度とは明らかに違う。こんな時間に来たことといい、これもキューピットの矢の影響だろうか。
押し問答をしていても仕方がないし、彼を求めたのは確かに私だ。この時間に来ることまでは望んでいなかったけど。私は玄関のドアを開け、彼を家に上げた。
「……!」
瞬間、緊迫した空気が張り詰めた。廊下で突然知城が私の行手を阻むように、壁に手をついたのだ。彼の顔が目の前に迫っていた。背中には壁、目の前には彼、右手側には彼の左手……そのままでは逃げられない。だが彼が私の腕を掴んでいると言うことは、私の腕だって届く距離。その気になれば私は彼の顎や体幹や下半身に一撃でも加えて逃げることができる。でもパニックに陥ったか、私は覆いかぶさるようにして立っている彼の前で縮こまった。それでも、何のつもり、と訊ねることはできた。
「……加賀美、お前……"あの矢"を使ったろ……」
知城が訊ねる。その声は絞りだすかのように苦しげであった。心なしか、身体が震えているようにも見える。寒さで? いや、それとは何か違う気もする。そして私も、あまりの事に微かに身体を震わせていた。
「え、ええ……そうだけど……」
「くそっ……! 早まったことを……!」
悔しげに彼は顔を歪める。やはり、他に好きな人がいるところに私の矢を打ち込んだのはまずかったか……
それでも、私は彼を振り向かせたかったのだ。例えその先にどんな悲劇や修羅場があったとしても。
手放したくなかったのだ。そうしないとその先すらなくなってしまうのだから。
だから私は、悪魔の囁きに耳を貸した私は彼やその好きな人のことなど考えずに、私の欲望に身も心も任せた。
知城の口が開かれる。きっと、私をなじる言葉だ。好きな人がいると知っていながら、キューピットの矢を使って強引に私に思いを向けさせようとした事に対しての。確かに、それは私が悪かった。
しかし、それとは別に彼の罵倒の言葉や恨みの言葉を真正面から受け止める勇気は、私にはなかった。身勝手に矢を打ち込んでおきながら、卑怯きわまりない。私は知城から逃れようと彼の右手から抜けようとした。だが彼は電光の速さで私の手首を掴み、強引に振り向かせた。そして言った。
「いいか、もう抑えが効きそうにない。一度しか言わないからよく聞け……」
「いやよ……」
耳を塞ぎたかったが片手が封じられては彼の声を遮断できない。せめてもとばかりに私は目を強く閉じた。そんな私に言われた言葉は……
「加賀美……俺はお前が好きだ……! 矢を撃たれたとか関係なく……!」
「……え?」
思わず閉じていた目を開く。そこには矢のように真っ直ぐに私を見据えている久保田知城がいた。目を爛々と輝かせていてちょっと怖いけど、それでもその目に嘘偽りは無さそうだった。
「だって、あなた……好きな人が出来たって……」
「だからそれがお前……すまな……もう無理だ……!」
「え? 何が……んむぅう!?」
訊ねようとした私の口は封じられていた。彼のくちびるによって。そう、私は彼に強引にくちづけされていた。何の準備もなく、私のファーストキスは彼に奪われた。それでもその初めてが彼に捧げられたことに、幸福感があったのも事実だ。彼に包ま
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