『何でしょうか? 何かが聞こえます……それに、何かいい匂いがします……』
とある森で張られたテントの中で女の眠りが破られた。その女はただの女ではない。側頭部と腰から対になって純白の翼が生えていた。神聖なる、天の使いであることを示す翼が。しかし彼女の頭には輪はない。寝袋にくるまっている彼女の横には物々しいクレイモアと厳つい鎧が置かれている。ヴァルキリーなのだ。
ヴァルキリーとは主神の声に従って勇者や英雄となるべき人に付き添って彼らを助ける中級天使である。このヴァルキリー、ヒルダもまたそのうちの一人だ。当然彼女にも、付き添っている勇者がいる。今、横で寝ているはずのシルズだ。
そのシルズの物なのだろうか。荒い息遣いとうめき声のような物が、まだ覚醒しきっていないヒルダの耳に響いていた。
「あ、あ……ヒルダ……」
小さい声であったが、呼び声が聞こえた。確かにシルズの物だ。その声はやけに切なくヒルダには聞こえられた。まるで外に締め出されている犬が、中に入れてくれとねだるかのような。
『シルズ……? どうしたのでしょうか?』
シルズの声、自分の名前、鼻孔をくすぐる匂い……何が起きているのか確かめるべく、ヒルダは目を開いた。明かりがないテントの中では、始めは何も見えない。だが徐々に闇に目が慣れると、天使であり人より能力が高く夜目も効くヒルダはぼんやりと輪郭だけでも把握することができた。そしてそれだけで十分であった。ヒルダの目が大きく見開かれる。素早く跳ね起き、ヒルダは身構えた。薄衣姿でも、無防備には見えない。
「シルズ!? あなたは一体何をしているのですか!?」
一喝されたシルズの動きが固まる。右手は下腹部にあり、怒張した彼のモノを握っていた。そう、あろうことか彼はパートナーのヴァルキリーの横で自慰をしていたのだ。
二人が信じる神は猥りがましい事を禁止している。生殖のための性行為ですら秘めるべき事とされているのに、快楽を得るためだけの交わり、そして自慰が許されるはずがない。シルズがしていたことはその禁忌を破るものであった。
テントの中に重苦しい沈黙が降りる。しばらくして、彫像のように固まっていたシルズが動いた。右手を未だに張り詰めた肉棒から離す。そして弾かれたようにテントの隅に移り、ナイフを取り出した!
「……!」
考えたり言葉を発するより先に身体が動いた。低い姿勢のままヒルダがシルズに飛びかかる。だが彼との間合いを詰めている間に、シルズがナイフを己の首に押し当てているのは分かった。
「させません!」
勇者であり男であるシルズであるが、人外の存在でありましてや神の使いであるヴァルキリーには勝てない。彼は腕を捻り上げられ、痛みでナイフを取り落とした。そのままヒルダに組み伏せられる。
「やめろ! 死なせろ! 死なせてくれ! そうでなきゃ殺せ!」
「そうはさせません! 何故このようなことをしたかハッキリと告白し、その上で主神様の判断を仰ぎます!」
シルズが叫んだが、それをさらに上回る声量でヒルダが怒鳴りつけた。ここが宿屋などであったら即座に苦情が隣の部屋などから来たことだっただろう。
再びテントの中に沈黙の帳が降りる。その間、二人はまるで戦いの前であるかのように睨み合っていた。
「シルズ……確認します。あなたは主神の教えに背き、オ……オナニーという、快楽のための行為を行っていたのですね?」
「……」
シルズは黙ったままであったが、やがて観念したようにこくりと頷いた。ごまかしようがない。間抜けな絵面ではあるが、彼は未だに下半身を露出したままであり、その逸物は熱り立っている。分かりきっている状況であったが、シルズの肯定の仕草を見てヒルダの顔が苦虫を噛み潰したかのような表情になった。
品行方正な勇者だとヒルダはシルズを評価していた。セントラクル王国で彼と出会い、この半年間ずっと二人は寝食を共にし、剣を振り、旅をしていた。シルズは情に溢れてはいるがそれに流されることはなく、敬虔な教徒であり、悪には毅然と立ち向かうが無駄に血は流すまいとする、勇者の鏡のような人物であった。勇者という立場を振りかざして横暴を働くこともない。ヴァルキリーのヒルダのことも大切に扱い、彼女の助言や叱責も素直に受け入れていた。アマゾネスの襲撃の撃退、商業ルートで障壁となっていたゴブリン山賊団の放逐、人間の山賊団からの人質救出……上げた功績も大きい。彼に付いているヴァルキリーとしては鼻が高かったものだ。その勇者がなぜ……ヒルダの失望は大きかった。
しかし、とヒルダは考える。思い起こしてみれば、このような事態になる予兆のような物があった。とある貧しい街を通った時だ。ヒルダがおつかいのために彼から目を離していた時、シルズは三人の娼婦
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