怒りと憎しみの鉄拳を……

「ぜやっ! はあっ! でやぁああ!」
 とある山林から鋭い男の掛け声が響いている。森の開けたところで男が拳を突き出し、脚を振り回していた。男は一人でそれをしているのではない。男の 格闘に相手をしている者がいた。
 女だ。男の攻撃を、身体を逸らして躱すたびに、胸にたわわに実った乳房が揺れた。だがその女の象徴の下にある胸筋を始め、腹や四肢の筋肉は彼女が一流の闘士であることを示している。
 さらに彼女を特徴づける物があった。手足と、腰から伸びる尾……黄金の地に漆黒の縞を持つ毛皮にそれらは包まれている。その毛皮は虎の物に他ならない。だが彼女は虎の毛皮を纏っているわけではない。これは彼女の身体の一部だ。
 人虎。霧の大陸に住む魔物の一種だ。その名の通り、虎の気高さを備えた誇り高き獣人である。強靭な精神と鋼の肉体を持つ、魔物娘らしからぬ勇猛果敢な戦闘種族だ。
「せやあっ! はああっ!」
 男の左拳が人虎の顔を狙って突き出される。並の人間では目視も難しいそれを人虎は軽く身を反らせて躱す。だがそれだけでは終わらない。男の腰がひねられ、右足が斧のように彼女の脇腹に迫る。
 人虎の顔色が少し変わった。だが少しだけ。次の瞬間彼女は体勢を戻した。いや、戻しただけではない。戻す勢いも利用して男の懐に潜り込み、そのみぞおちに右拳を叩き込んだ。
「ぐへっ……!」
 胃全体が潰されたかのような衝撃に男は膝を突く。だが心は折れなかったようだ。すぐに顔を上げて人虎を睨み。立ち上がる。そして右拳を振りかぶった。
「はああ……っ!」
 それを見た人虎の表情が残念そうに歪む。男の右拳を軽く躱しながら彼女は軽く嘆息した。
「やれやれ……また怒りに捕らわれたか」
 男は聞いていない。渾身の右拳を躱されてたたらを踏んだが、すぐに体勢を立て直し、今度は左回し蹴りを放った。しかしその速度はさっきの右蹴りと比べると勢いも鋭さもない。腹部への衝撃が残っていたのもあるが、何より怒りが彼の動きを硬くしていた。
「ふんっ!」
 人虎が男の懐に潜り込み、太腿を押さえ込んだ。そして鋭い手刀を首筋に叩きこむ。男の目がぐりんと上を向き、糸が切れた人形のように崩れる。
どさりと倒れた男を見て人虎はもう一度ため息をついた。
「本当に残念だよ、シエン……」
 男、シエンは聞いていない。彼の意識は怒りも何もない、暗闇の世界に送られていた。



「うぅ……」
 男が呻き声を上げる。目を開けると、見慣れた洞穴の天井が映った。ぱちぱちと枝が燃える音が右から聞こえる。そしてそこに何者かの気配を感じた。
「気づいたか?」
「フーウェン師匠……」
 首を捻ってみると、果たしてこの洞穴の主であり、シエンの師匠である、人虎のフーウェンが静かにシエンを見下ろしていた。
 フーウェンはその大きな虎の手で火にかけられていた湯沸かしを取った。中の湯を急須にいれ、そしてその急須の中身をお椀に注ぐ。不思議な香りがする翡翠色の湯がお椀に満たされた。
 人虎のみに伝わる秘密の湯薬をフーウェンはシエンに渡す。シエンはそれを無言で飲んでいく。甘さと苦さが混じった独特の味なのだが、組手で負けた後に飲む湯薬の味は、その敗北の味と同じように苦さが際立って感じられるようだった。
「さて……分かっているな? 今回の敗因は?」
「……」
 シエンの顔が歪む。フーウェンは何も言わない。本人の口から言わせないと意味がないのだ。
 しばらくシエンは渋い顔をしていたが、やがてぽつりと答えた。
「そうだ。何度も言っているはずだ。怒りは戦士から冷静さを失わせる。冷静さを失った戦士の動きは単調になる。怒りはさらに戦士の身体を硬くする。硬くなった戦士は速度を失う。いいことなしだ。そう何度も教えたはずなのに、なぜ分からない……」
 彼女の説教はため息混じりだった。フーウェンがシエンを弟子に取ったばかりの時は、鉄拳制裁をしながら怒鳴って説教をしていたが、今はこの通り。のれんに腕押しと分かっているフーウェンの説教には力がなかった。シエンは湯薬の苦味とフーウェンの小言に顔をしかめる。
 毎日毎日、朝にフーウェンと組手をし、最後に叩きのめされ、起きたら苦い湯薬を飲みながら師匠の説教を聞く……これがシエンの日課になっていた。
「戦士は怒ってはいけない。怒ったとしてもそれは私憤ではなく、義憤でなくてはならない……」
「家族を皆殺しにした王国への怒りは義憤になりませんか?」
「……何度も言っているはずだ。復讐をする、根底にその気持ちがある以上、お前の怒りは私憤だ」
「……」
 シエンは口をつぐむ。彼が何を言いたいのか、フーウェンは分かっていた。
『何も知らないくせに』
 そうシエンは言いたいのだ。以前、本当にそうこぼしたことがあった。師匠であるフーウェンに対してあまりに失礼な言葉
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