「月岡!」
昇降口でいきなり呼び捨てで呼び止められた。振り向いてみるとクラスメートで野球部員の工藤久司がそこにいた。
これから練習なのだろう。汗と泥の染み付いたユニフォームを身に着けている。その無粋な匂いに私は軽く眉をひそめる。もう慣れてきたし仕方がない匂いではあるが臭いのは確かだ。
初めて工藤と会話したのは去年の夏、ちょうど今頃、夕立が来て帰ろうにも帰れなくなってしまった私に練習から帰ってきた彼が傘を貸してくれたのがきっかけだった。
「お? なんだ、月岡じゃねえか。なんだ? 雨で帰れないのか? しゃーねーなー、俺の傘貸してやるよ。俺? いいよ、もう練習で濡れネズミになっちまったから、今更どうもこうもねーよ。んじゃな!」
人間の分際で私に気安く話しかけてきて、押し付けるような強引さに私は閉口した。加えてあのとき、雨でずぶ濡れだったはずなのにその汗と泥臭さに耐えられなかったものだった。
最初の私の彼に対する印象は良くなかったが、それでも彼に助けられたのは事実だ。同じクラスだったこともありそれ以降もちょくちょく私と工藤は会話することがあった。おそらく、人間の中では教師を除いて一番彼と会話しているだろう。泥臭さや汗臭さに悩まされることもあったが今はもう慣れ始めている。そんな自分がちょっとちょっと怖い。
しかしなぜだろうか。たまたま時間が合わなくて、あるいは彼がいつの間にか合宿などに行っていて、数日間連続で顔をあわせなかったら、少し不安になった。大なり小なり、いつもと違うことは不安感や刺激感を与える。私もそれだろう。そして久しぶりに工藤と顔を合わせたら、やはり私は彼の汗臭さと泥臭さに顔をしかめたものだった。
その彼が今日も私に声をかけた。明らかに私がこの昇降口にやってくるのを待って立っていた。知らぬ仲とは言え人間が何の用か……
「ああ」
短く挨拶を返し、無言で私は彼に要件を促す。
「俺、今年はようやくレギュラー入りしたんだよ!」
「そう、おめでとう」
「ありがとな!それでだな……」
私のそっけない返事にも飛び上がらんばかりに嬉しそうにお礼の返事を工藤はする。そして傍らに置いていたドラムバッグをあさり始め、小さな茶封筒を取り出した。それを私に突きつける。
「……何かしら?」
「今度、地区予選があるんだ。それに月岡に観に来て欲しくて……」
「……」
返事をせずに私は封筒を開いた。中には紙切れが二枚入っている。チケットが一枚とメモが一枚。地区予選はその県のあらゆる野球場で行われるらしく、そのチケットはどの日どの会場でも共通らしい。そのためにメモには日程と会場が記載されていた。この日に彼は観戦に来て欲しいらしかった。
「……どうせならこんな小さな大会じゃなくて、甲子園に出た時に誘えば良いものを……」
「ええ、いやぁ、まあ……そうなんだけどな……」
工藤の返事がはっきりしない。彼も分かっているのだろう。勝ち進めることはないことを。そこそこの難関大学進学率を誇る愛の宮北高校であるが、スポーツに関しては弱小校なのだ。だからこそ彼は初戦を観に来て欲しいと言っているのだ。
「……弱気ね。勝てそうにない試合に私を招いていいのかしら?」
「うぅ、まあ試合はちょっと厳しいんだけどね……けど俺はがんばるぜ! だからな、その……月岡!」
彼らしくもなく口ごもってから、不意に工藤は姿勢を正し、まっすぐに私を見てきた。急に改まって何事か。自分より格下である人間の工藤だが、ここでそっぽを向いていい加減な態度を取るのも淑女らしくない。私は手元のチケットから目を上げ、楽な姿勢で彼の目を見た。次に何を言われるか、まったく考えずに。
「この試合で、俺がホームランを打ったら……付き合ってくれ!」
「……は?」
急な言葉に私は思わず、ぽかんと口を開けてしまった。彼は今、何を言ったか。驚いている私を置いておいて、工藤は一人続ける。
「俺、ずっと前から月岡のことが好きだったんだ! だから……」
「待て待て待て。あなた、私の気持ちも無視して何をいきなり……!」
「頼むよ!」
「……」
開いた口がふさがらなかった。時代は変わり、貴族と言う身分がなくなった今でもヴァンパイアは誇りと言うものを持ち、人間というものを下に見る。私も工藤と話をする仲になって一年くらい経ち、傘を貸してくれたところなどはある程度評価しているが、基本は変わらない。そんな彼にいきなり告白され、交際を迫られて私は、ごく控えめに言って、困惑していた。
「あ、わりぃ! もう行かないと……!」
私のことは相変わらず捨て置き、彼は重そうなバッグを拾い上げて肩にかける。今日もいつもどおり練習があるのだろう。だが今は私と長く会話したため、時間の余裕がないらしい。あっという間に彼はスパイク・シューズを履
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