蜜柑と梅雨

 梅雨を迎えた山間の里には湿った風が吹き降ろし、雨の予兆が草木を揺らす。
 数日振りに顔を覗かせたお天道様も、早々にその顔を黒い雲に覆い隠されようとしていた。

「まいったな、こりゃあ」

 里から少し離れた山の中、中腹に作られた蜜柑畑で握り飯を頬張っていた男は、あっという間に雨雲が埋め尽くした空を見上げて一人呟いた。

 今年の梅雨は特に激しい。乾きすぎるのは当然良くないが、雨量が多すぎるのも蜜柑の味を悪くしてしまう。それに、山の土が緩めば、蜜柑どころではなくなってしまう事もある。
 だからこうして晴れの間に様子を見に来たのだが、帰り支度をしている間にも雨雲は蜜柑畑に暗い影を落とし、雨をぽつぽつと降らせ始めてしまった。

「うひゃあ、冷てぇな」

 男は握り飯を包んでいた風呂敷を頭に被り、笠代わりにする。気休め程度だが、無いよりはましであろう。
 さて急いで帰ろうかと立ち上がった所で、ふと、視界の端に人影が見えた。
 気になってそちらを見れば、木々の合間に、雨の中で傘も差さずにぼぅっと蜜柑の木を見上げている娘が一人。

 まだ年若い、子どもっぽさの抜け切っていない顔立ちだが、藍色の髪は腰ほどまで伸び、濡れていてもなお美しい。憂いを含んだ表情も、不相応なほどに大人びていてなんとも魅力的である。
 身に纏った上品な絣の着物は雨にすっかり濡れてしまい、体にぺったりと張り付いて、丸みを帯びた胸や腰の線を際立たせている。しかし、それは男の情欲を掻き立てるよりも、見た者を心配にさせてしまう、どこか寒々しい姿だった。

「おい、そこの娘。こんな所で突っ立ってたら、風邪引いちまうぞ」

 親切心から声をかけると、娘はおもむろに男の方を向き、儚げに微笑んだ。
 それを見て、はてと男は首を傾げた。あんな娘は、里の近隣にいただろうか。少なくとも、自分の覚えている限りではいない。では、旅の者だろうか。それにしては、随分と軽装である。

 男が不思議に思っていると、娘はゆらりと動いた。そして、こちらに来るかと思いきや、木にぶつかって、そのまま消えてしまった。

「……なんだったんだ?」

 男が娘のいたところを見てみれば、そこには人の影も形も残っていない、ただ、水溜りがあるだけだった。

「狐につままれちまったかねぇ」

 しばし悩んだ後、男はそう呟いた。そして、一層勢いを増した雨に、慌てて里へと駆け下りていった。


 それから数日後。

 相も変わらずしとしと降り続ける雨の音の合間、とん、とん、という包丁の音があばら家に響いていた。
 その音に目を覚ました男は、家内に漂う味噌汁の香りに答える様に、ぐうと腹を鳴らした。
 それだけではない。ふわりと舞ったのは、米を炊いている匂いだろう。ぱちぱちと聞こえる音からして、魚も焼かれている。朝飯から、随分と豪勢なものだ。

 寝起きのぼんやりとした頭でそんな事を思っていた男は、ふと首を傾げた。
 うちにはおれしか居ないはずだ。では、誰が飯を作っているのか?
 寝汗で湿った布団から慌てて這い出て、炊事場である土間へと顔を出す。
 そこでは、見知らぬ娘が慣れた様子で朝餉の支度を進めていた。

 理解が追いつかず、ぽかんと間抜けに口を開けていた男に気付くと、その娘はおもむろに微笑み、小さく会釈をした。男も、咄嗟に会釈を返す。
 そして、いやそうではないだろうと我に返ると、厳しい顔つきを作り、訊ねた。

「……おい、お前さん。何者だ」

 男が声をかけると、何事も無かったかのようにご飯を茶碗に盛っていた娘は、再び男を振り返り、首を傾げた。何故そんな事を聞くのか、とでも言いたげに。

「いや、待て。その絣の着物に藍の髪。見覚えがある……畑にいた娘だな」

 そう。それは、あの大雨の日に蜜柑畑で見た、雨に濡れていた娘であった。
 絣の着物も藍色の髪も、消えた後にあった足元の水溜りまでも、雨の中で見た時と何ら変わっていない。不自然なほどに、何もかもが同じであった。

「……さては、妖怪か」

 否定する理由も無いのだろう。娘は、静かに頷いた。
 その拍子に、艶やかな髪の先から雫が零れ落ちる。それは、娘の足下に広がった水溜りに落ち、表面をぷるんと揺らした。何か、緩い寒天か、透明なこんにゃくを突いたかのような動きであった。

「何をしに来たのかは知らんが……」

 深々とため息をついた男は、囲炉裏の前にどっかと座り、勝手に家に上がりこまれた事へ不満を零そうとした。
 しかし、娘がまるで気にせず飯の支度を続けているのを見ると、何となく馬鹿らしくなって、結局口を閉ざした。
 畳の上に転がされていた団扇で梅雨のじめじめとした暑さを誤魔化しながら、やり場の無い感情を込めて娘の後姿をじっと睨む。

 昨今の妖怪はどういう訳か人間の女の
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