深い深い水の底。人の目が届かぬ海の中で、ひっそりと、清らかな祈りが捧げられていた。
それは、海の神に語りかける祈り。生まれ落ちた新たな命にふさわしい祝福をもたらすための、司祭の言葉。
祭壇に立って赤子を抱く父と母は、緊張に息も止めて、儀式が終わるのを待つ。
ふと、母親の体から小さな光が漏れ出した。混ざりあった夫婦の魔力が、海神の力を受け、光に変わったのである。
円盤のような形をした光は、ゆっくりと移動し、半人半魚の幼子――生まれたばかりのメロウの頭に留まると、徐々にはっきりとした姿を取りはじめる。
薄く広く広がる光は、やがて、一つの帽子へと形を変えた。
形状が確かになると同時に、その色も白色から、淡い桃色に。飾りもない、子どもの頭には少し大きい帽子が、柔らかく現れる。
「……あとは、時の流れが帽子をその子に馴染ませてくれるでしょう」
帽子を斜にかけた子どもを見つめたまま、司祭は夫婦に言った。
海底都市の神殿内で行われた儀式が何事も無く終わったことに、夫婦も安堵の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、シエラ様。とても……素敵な帽子ですね」
そう言いながら子どもの帽子を正す人間の父親の頭にも、似たような帽子が乗っていた。
対して、メロウの母親は、桃色のくせっ毛に男物の山高帽をかぶっている。身に着けているものこそ違えども、両親が子を見つめる目は等しく優しい。
二人が夫婦となってから、数年。念願の子どもを授かった事に喜んだのもつかの間、幸せながら忙しい日々に新米父母は振り回されていたが、今日、赤子がメロウの証である帽子を与えられたことで、慌ただしかった日々もひとまずは落ち着くことだろう。
「お礼なんて。わたくしは、ただ、ポセイドン様にお二人の言葉を伝えただけです。それに、その帽子は、他ならぬあなたたちが作り出したものですから」
優しげな微笑みを浮かべる司祭――シー・ビショップのシエラは、謙遜ではなく、心からそう思っているようだった。それでも、と、幼子の両親は丁寧にお礼を繰り返す。
感謝の気持ちから「よろしければ今夜はうちで食事を」と提案する夫婦に、シエラは静かに首を横に振った。
赤子を持つ親の苦労に、客をもてなすための苦労まで重ねたくなかったのがひとつ。帽子が授けられた大切な日を、親子三人で過ごしてほしいというのがひとつ。
最後にもう一度礼を言ってから神殿を出て行く親子を見送りながら、祈りを胸の内で捧げる。
あの親子に、ポセイドン様のご加護がありますように。
海の魔物たちと人間による婚姻の儀と同じく、海神ポセイドンからメロウの子へと帽子を授ける儀式は、シービショップであるシエラに与えられた重要な役割の一つである。
今日、あの二人のために行った儀式の他にも、数え切れないほどシエラはメロウの子に帽子が与えられる瞬間を見届けてきた。
そして何度見ても、我が子を見る親の姿というのは、尊く感じられるものである。
「……あっ、いけない」
穏やかな感動に浸っていたシエラだったが、この後の予定を思い出すと、慌てて片付けを済ませて神殿を飛び出した。
自宅に寄っている間も惜しい。儀式用の祭服を着たまま、海底都市から、まっすぐに海を昇る。海の色が、水底を照らす魔力の光による明るさから、自然に差し込む陽光の明るさに変わる。ぼやけた太陽を見上げつつ海面付近をしばらく泳ぐと、やがて、海辺の小さな村が見えてくる。
住民は人間ばかりだが、魔物に対する理解はあり、海底都市と人の町々を繋ぐ橋渡しのような役割を果たしている村である。
そして、その小さな村には、これまた小さな仕立て屋がある。
若い職人が一人で営むその仕立て屋は、看板も掲げていないが遠方からの依頼も来るほど腕は確かで、海底都市での婚姻で新郎新婦が着る衣装を作ったことも一度や二度ではない。シエラが持つ数種類の祭服も、すべてそこで仕立てられたものである。
とは言え、シエラがこの小さな村の小さな仕立て屋にこだわる理由は、職人の腕を見込んだからというだけでもない。
魔力を纏い、一時的に陸へと上がれる姿に変わったシエラは、砂浜からまっすぐに仕立て屋と向かい、ひとまず、深呼吸をした。
着慣れた祭服に乱れが無いか確かめ、もう一度深呼吸をして、ようやく、扉を叩く。
「はーい」という少々間延びした返事からやや間を置いて、ドアが開いた。
「何かご用……おや、司祭様。お待ちしておりました」
顔を出したのは、柔和な顔をした青年だった。身にまとった作業着はそこら中に繕い跡がある粗末なもので、色も褪せている。しかし、それがかえって青年の雰囲気を純朴で好ましいものにしていた。
青年の笑みを受けて、シエラも微笑む。高鳴る胸を押さえることに精一杯で、自らの
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