旅の資金を稼いだら、また出立しよう。青年がそう決めて船渡しという仕事を始めてから、もう、一年が経つ。
客を乗せて群島の間を行き来する仕事は、決して、楽なものではない。島を出てどこか知らない地を放浪できるだけの資金は、もう貯まっている。
それにも関わらず、青年は今日も船を出す。
行くあてのない旅を続けられるほど、自分は強くなかった。
心のどこかでその事に気づいてしまったのは、いつだっただろうか。
「……おつかれさまでした。お気をつけて」
「うむ。お前も、気をつけてな」
「はい」
浜に半ば刺さるように乗り上げた舟から、乗客の老人が降りていく。
この島の、そして群島で唯一の医者である老人は、青年に船渡しの仕事を紹介した張本人だった。
青年はその事に感謝しつつも、自分がよそ者であるために半ば押し付けられた仕事であることも理解していた。
先代の船渡しは、魔物に船を沈められて消えた。
住人たちから聞いた話は嘘ではないのだろう。だからと言って老人に文句を言うつもりもない。こうして仕事を貰ったことで、生きていられるのだから。
「……帰るか」
呟いて、青年は浜に乗り上げていた舟を押した。
複数の島と入江によって、この近海は波と風が安定しない。落ち着いている間に島を渡るのがコツであると、嫌でも学ばされた。
日は海面に近づいてきている。住んでいる島に帰るのが先か、日が落ちるのが先か。
やがて波が高くなりはじめると、青年はオールを舟に上げて、自らの首に下げている首飾りを握った。
銀色のペンダントトップがついた、飾り気の無い首飾り。
親から子へと代々伝えられてきた「幸福を呼ぶ首飾り」とやらも、どうやら俺には意味がなかったらしい。
自嘲気味に胸中で呟いて、ただ揺られるだけになった舟の上で空を仰ぐ。日が落ちても、灯台のある島に帰ることはできる。だが、視界の狭まる夜の海を行くのは、短い距離でもぐっと危険になる。
そうして、空を仰いでいたせいか。青年は、ひときわ高い波が迫っていたことに気づけなかった。
波は、勢いよく舟を持ち上げる。大きく傾いた舟の上で、青年はとっさに縁を掴んだ。積んでいた浮き具が跳ねて、海へ投げ出される。オールが滑り、木同士のぶつかる硬い音が立つ。
数度揺られたところで、ようやく、波は落ち着いた。
転覆はしなかった。しかし、この調子では、いずれ舟はひっくり返るだろう。魔物の仕業であるとか、そんなことも関係なく。
「……あれ」
跳ねた飛沫で頭からずぶ濡れになった青年は、やはりずぶ濡れのシャツの胸元に手を当てて、こぼした。
「無い……」
…………
明るくなってから舟を探してみたものの、首飾りはどこにもなかった。
気が沈まなかったと言えば嘘になる。自嘲の種にしかなっていなかったとは言え、父親や祖父から誇らしげに逸話を聞かされた物を失くしたことは、青年が思った以上に悲しみを覚えさせた。
しかし、どれほど気持ちが沈もうが、三日も経てば人の気分は変わってくる。
船渡しとしての仕事をしつつ日々を過ごすうちに、青年も、自分が首飾りを落としたことに対して、気持ちの整理がついてきていた。
ふとした時に感じる首元の寂しさは誤魔化せないが、ある意味では、長々と続く風習から解放されたとも言える。
今日は、天気がいい。海も落ち着いている。
今のうちに、港町まで買い出しに行ってもいいかもしれない。あるいは、久しぶりに魚でも釣ろうか。
ぼんやりと外を眺めながら、青年は決まりもしない予定をもてあそぶ。
その青年の視界の端で、何かが揺れた。波とは違い、海が曖昧な形を持ち、動いている。
このあたりでは見ないが、クラゲだろうか。なんとはなしに眺めていたその塊は、ゆっくりと、浜へと上がってきた。
水色の体に、青いひらひらとした物を纏った、奇妙な生き物。
あの魔物か、と、青年はその生き物を眺める。
この島には、たまにだが、大きななめくじ、あるいはウミウシのような姿をした海の魔物が上がってくることがある。
はじめの内こそ警戒したものだが、どうやらその魔物に人を襲う気は無いらしいとは、何度目かの遭遇ではっきりとした。陸に上がった青い魔物は、ひらひらとドレスのようなものを引きずりながらしばらく砂浜を這い回り、やがて海へと帰ってゆく。何かを探しているようでも、何も考えていないようにも見えた。
無害であると分かれば、怖れることもない。青年からすれば、退屈な島の暮らしにたまにやってくる見世物のようで、来てくれるのを楽しみにしているようなところもあった。
眺めこそすれど声はかけず、向こうからすれば見られていることも知らないであろう、奇妙な距離感。長く続き、これからも続くはずだったその空白は、しかし
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