吹雪の山と雪の精

 その日の雪山は、気まぐれだった。
 旅人が足を踏み入れた時は穏やかであったのに、急に強い風が吹き始めたかと思えば、瞬く間に全てを凍て付かせるような吹雪へと変わった。
 横薙ぎの風に乗り、雪だけでなく、氷の粒までもが旅人の身に叩き付けられた。
 万全の用意をしていたはずなのに、厚い外套も、ブーツも、何の役にも立たなかった。
 麓の町で聞いた話では、道なりに歩けば、雪山を越えるのはそう難しくはない、容易く向こうの町へ辿り着けるはずであった。
 しかし、それはあくまでも吹雪いていない時の話。

 吹き付ける風が体から熱を奪う。体に張り付いた雪は、溶ける事無く次々と積もっていく。
 ただ呼吸するだけでも、口が、鼻が、肺が冷えて苦しい。
 喉が渇いたが、今頃は、水筒の中身もカチカチに凍っている事だろう。
 じっと耐えて歩く旅人の視界には、もはや、道らしい道はまったく見えていなかった。

 帰る場所の無い旅を続けている限り、骨を埋める場所も選べない。それが、旅人というものだ。
 食料が尽きて、崖から落ちて、獣に食われて、魔物に襲われて、病で、怪我で、様々な理由で、思いもよらぬ時に命を落とす。
 雪山で吹雪に巻かれて死ぬのも、それが自分の旅の終わりだというだけだ。

「……こっちに、来て」

 幻聴まで聞こえてきた。可愛らしい少女の声だ。
 なるほど、死神とはこういった声に姿を与えた物か。死を予感した人間の精神とは、なんと不安定なのだろう。
 少女の声を拒むように、旅人は前を睨み、歩き続ける。

「……そっちは、だめ」

 再び、声が聞こえた。先ほどよりもはっきりした声に、旅人は足を止めた。

「こっちに、来て」

 気配を感じて振り返る。吹き荒れる氷雪以外には何も見えない。しかし、確かに何かがいる。
 そういえば、麓の町で聞いた話には、雪山には雪男が出るなんてものもあった。
 道に迷った人間を案内するふりをして洞窟に誘い込み、頭から食ってしまうのだという。

「……そっちは、だめ。こっちに、来て」

 何も見えないが、やはり、少女の声だけは聞こえ続けている。
 寒さで回らない頭で、旅人は必死に考える。
 声の主が噂の雪男なら、着いていけば食われるに違いない。しかし、本当に助けてくれようとしているなら?
 そもそも、雪男に案内された人間が全員食われているのなら、そんな噂すら残らないのではないか?

「おねがい、こっちに、来て……」

 悲痛さすら感じる声を聞き、旅人は覚悟を決めた。
 恐らく、このまま自分の感覚で歩いていても、凍えて死ぬだけだ。それなら、雪男、あるいは雪女の誘いに乗ってやろう。
 もし食おうとしてきたら、ナイフで刺して、逆に食ってやる。無論、そんな事を出来る体力は残っていないが。

 向きを変えて、気配を感じる方へ向かって歩く。

「よかった……こっち、きて……」

 優しい声だった。見えない何かは、吹雪の中に姿を隠したまま、気配と声だけで旅人を導いた。
 少し手を伸ばせば触れられそうだが、どれだけ手を伸ばしても届かない。
 不思議な距離で、ずっと、旅人に寄り添って、励まし続けた。

 そうして、何かに導かれて旅人は歩き続けた。
 やがて、吹雪は弱まり、徐々に開けてきた視界の向こうに、光が見えた。

「もうすぐ、だから……」

 少女の声がそう言うと同時に、吹雪は止んだ。

「……越えられたのか」

 雪がはらはらと舞う雪原の向こうに、灯りの点っている町を見ながら、旅人は呟いた。
 同じ雪景色でも、生命を奪う雪山とは対照的に、その雪原は静かで美しかった。

 もう少しだけ歩けば、町へと辿り着ける。既に指先の感覚が失われた足で、一歩踏み出す。

「よかった……ばいばい」

 ずっと隣を歩いていたはずの少女の声が、後ろから聞こえた。
 ずっと隣にいてくれたはずの気配は、気付かぬうちに雪山へと戻っていた。
 思わず、旅人は振り向いていた。

 真っ白な雪の中、ぶかぶかの外套を纏った、雪のように白い肌の少女が、手を振っていた。

 旅人が手を振り返そうとした瞬間、冷たい風が吹き乱れ、氷雪が二人の間を遮った。風が止んだときには、少女の姿は消えていた。

 ふらりと、誘われるように雪山へ戻ろうと足を踏み出したが、数歩戻った所で、拒むように、吹雪は勢いを増した。

「……分かったよ」

 冷たいため息をついて、旅人は雪山に背を向け、人の集落へと歩き出した。

 雪山から離れても、町までは、もう少しだけ距離があった。

 積もった雪に足を埋め、もう少し、もう少しと自分を励まし続けていたが、雪原を抜けて、大門から町へ入った頃には、今にも倒れそうに、足は震えていた。
 雪だるまを作って遊んでいた子ども達に宿屋の場所を聞き、なんとか宿屋へたどり
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