白いもやのかかる早朝の町で、一人の男が出立の支度をしていた。
動きやすそうな作業着と背負った大きなかごは、眼鏡をかけた線の細い容姿とは、控えめに言って似合っていない。
そんな男を見て、いくらか年若そうな青年は、不安を隠そうともせずに顔をしかめていた。
「先生、本当にお一人で大丈夫なんで?」
その言葉に、「先生」と呼ばれた男は、人の良さそうな笑みで答える。
「ええ。あの森に危険が無いと言うことは、今までみなさんが一緒に来てくださったおかげで、十分確認できましたから」
「しかし……」
青年は渋り、しばらく言葉を探していたが、やがて、心配が過ぎているのかもしれないと自覚したのか、小さくため息をついた。
「……分かりました。お気をつけて。でも、次の鐘が鳴っても帰ってこなかったら、町総出で探しに出ますからね」
「ありがとうございます。お手を煩わせないように気をつけますよ」
心配性な青年に一礼し、男は歩き出す。
向かう先は、町からほど近いところにある森。
その森に生る木の実の種が、町の風土病に効く薬になると分かったのは、最近のことである。
子どもや老人など、体力の無い者が数年に一度かかる、喉が焼けるように痛むという病。残念ながら種から作れる薬では予防にも根絶にもならないが、それでも、治癒が早くなると言うだけで、用意する価値はある。
かつては苦しむ人に何もできなかったことを思えば、と、医者である「先生」は、数日に一度の木の実拾いも、苦には思わない。
だが、この医者が一人で森を訪れるのには、もう一つ理由があった。
「……やあ、いるかい」
森の中を馬車で通るために切り開かれた林道とは違う、自然に生きる木々が気まぐれで譲り合った末に生まれたような開けた場所で、医者は見えない何者かへ呼びかける。
返事はない。
しかし、医者は焦ることもなく、木の実が入ったかごをかたわらに置き、その場に腰を下ろす。
森のどこかで、獣が鳴いた。だが、これではない。
森を吹き抜ける風が、木々を揺らした。だが、これでもない。
待っていたのは、しぃん、と、何か、鈴の音にも似た音。
風の音にも消える程度だったその音は、少しずつ大きくなり、やがて、はっきりとした声に変わった。
「せんせい!やっぱりせんせいだよ!ほら、アイリス!」
無邪気な声とともに、医者の頭上から、一匹の小さな生き物が――妖精が、樹上からほとんど落ちるような勢いで降りてきた。
人の手ほどの小さな体に、癖のある赤い髪。着ているものは人間の服と同じようなワンピースで、これもまた、髪と同じように赤い。
背にある三対六枚の透き通る羽をはばたかせ、忙しなく医者の周囲を飛び回る。
「ま、待ってよローズ!」
そんな赤い妖精、ローズからいくらか遅れて、アイリスと呼ばれていた妖精が、ひらひらと舞うように降りてくる。
こちらはローズとは対照的に、さらさらと流れるような青い髪をしている。水色のワンピースは、簡素なローズの物とは違い、ところどころに凝った刺繍が入っている。
背の羽は二対四枚だが、やはり透き通っており、医者の目の前で浮かぶアイリスを支えながら、時折、木漏れ日を受けて煌めいている。
「せんせい!せんせい!ね、ね、今日は何してあそぶ?あっ、そうだ!あのね、あのね!」
「だ、だめだよ、まずはごあいさつをって、こないだ教わったのに……」
「もー、アイリスはこまかいの!」
ぐるぐると大きく円を描いて飛び回るローズを、アイリスはわざわざその場で駒のように回って追いかける。
その光景を見て、紐で繋いだおもちゃのようだ、と「せんせい」は微笑みを浮かべていたが、流石にずっと眺めているわけにもいかず、十分に楽しんだところでやんわりとたしなめた。
「ほらほら二人とも。あんまり回っていると、目を回して落っこちてしまうよ」
そう言われて、ようやくアイリスは回るのをやめて、医者と向かい合った状態で止まった。
しかし、ローズはただ軌道を変えただけで、今度は∞を描きながら「そうだ!あのね!」と小さな体のどこから出ているのかと思うほどの大きな声で喋り続ける。
「あっちの、森の奥の方に、空っぽのおうちを見つけたんだよ!あそこでお話しよ!」
「それはいいかもしれないね。でもね、ローズちゃん。人間のお家は、空っぽだからって勝手に入ってはいけないんだ」
「えぇー、わたしはそんなの、ぜんぜん気にしないのに……」
頬を膨らませ、空中でくるりと前転をするローズ。
落ち着きのない赤い妖精とは異なり、青い妖精アイリスは、医者がそっと差し出した手の先にふわりと腰を下ろした。
そして、もじもじと、恥ずかしそうに、消え入りそうな声で言った。
「あ、あの……妖精がみんな、ローズみた
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