悲劇と救済

「どこか、休める場所を……」

 そう呟いた彼の声は、激しい風雨の音であっという間にかき消されてしまった。
 大きな木々が鬱蒼と茂る森の中はただでさえ暗いのに、今日は月明かりも無い。
 私の手を引く彼の姿は、うっすらとした影だけでしか見えない。
 だから、お互いの存在を確かめ合う手は、繋いだまま離せない。

 体がだるい。寒い。熱い。
 元々病弱だったのに、雨の中を歩き続けたんだから、当然だ。
 一つに結んで後ろに垂らした黒髪は、雨に濡れたせいで重くぶら下がって鬱陶しい。
 こんな事なら髪なんて切ってしまえばよかったと、今更後悔した。
 地味な色合いのブラウスとロングスカートは、肌に張り付いて体温を奪い続けている。
 こんな事ならもっと楽な服を着ればよかったと、今更後悔した。

「せめて、火があれば……」

 苦々しく、彼が言う。
 確かに、火の明かりが、熱が恋しい。
 でも、ランタンの油は既に底をついている。
 残っていたマッチも長雨で湿気てしまい、使い物にならない。
 彼と引き離されてしまう前に、急いであの屋敷から逃げ出した。
 だから、荷物はちゃんと用意していなかった。
 食べ物も、あとどれだけ残っていただろうか。

「私は、大丈夫よ……あなたの手が、あたたかいから……」

 焦りが感じられる彼を安心させようと、精一杯の強がりを口にする。
 でも、掠れた声では、疲れているし喉も渇いているのは誤魔化せない。

「ああ、大丈夫。そう、大丈夫……絶対、助かるから……」

 彼の言葉は、私に答えるというよりも、自分に言い聞かせているように聞こえた。
 たとえそうだとしても、こんな時でも諦めずに私を導こうとしてくれる。
 それが嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。
 闇雲に歩き回るばかりでは無駄に疲れてしまうだけ。
 それはきっと、彼も分かっている。
 でも、いつか森を抜けられるのではないかという淡い期待もある。
 それはきっと、私も同じ。
 だから、私は、彼と一緒に歩き続けるしかできない。

 そう思った矢先、彼が突然何かに躓いて、転んだ。当然、手を繋いでいた私も一緒に転ぶ。
 冷たい泥が口に入ってじゃりじゃりした。
 手を擦り剥いた気がしたけれど、冷え切った手では痛みが分からない。
 地面に転がったままの私を、同じく地面に転がったままの彼が抱きしめる。
 彼の体も冷たかったけれど、それでも私よりは、まだ温かい。

「誰か……誰でもいいから、助けてくれ……」

 彼の悲痛な声を、私はどこか遠く感じた。
 ここで倒れていたら、きっと、二人とも死んでしまう。
 そうは思っても、体は動かない。徐々に意識が薄れていくだけ。
 二人一緒に死んだら、天国で今度こそ一緒になれるかもしれない。
 そんな事が、頭に浮かんだ。

 ぼやけた視界に、彼の顔が映る。
 泣いていた。
 雨と泥でぐしゃぐしゃだから涙なんて分からないはずなのに、確かに泣いていた。

「ごめん……僕が、一緒に逃げようなんて言ったから……」

 謝らないで、と言いたかった。それを望んでいたのは、私もなのだから。
 それでも、彼は何度も何度も謝り続ける。
 こんなにも、純粋で優しい。そんな人を道連れなんて、私がしていいはずがない。
 だから、祈る事にした。

 神様がいるのならば、今こそ救いの手を差し伸べてください。
 いや、神様じゃなくてもいい。
 この大好きな恋人さえ助かるならば、いっそこの身も悪魔に捧げてもいい。

「……あらあら、大変」

 突然、そんな声が聞こえた。
 あたりがぼんやりと明るくなって、誰かの足音が近寄ってくる。
 祈りが通じた、神様が来てくれたんだなんて思ったのは、きっと、その声がとても優しかったから。

 彼は気を失ってしまったのだろうか。目を閉じたまま動かない。
 かわりに、私が手を伸ばして、助けを求めた。
 声は出なかったけど、たぶん、伝わった。
 その証拠に、何か柔らかいものが、私と彼を抱え上げた。
 温かくてぬるぬるした、何か。
 気持ち悪いはずのそれが不思議と心地良くて、私は安心した。
 そして、安心してしまったから。
 かろうじて繋ぎとめていた意識も、手放してしまった。




 目を覚ましてしばらくの間は、自分がどうなっているのか、よく分からなかった。
 ぼーっと天井を見つめ続けて分かったのは、それは黒っぽい岩でできているという事。
 壁も床も、同じような岩造り。そして、木製のドアが一つ。
 私はそんな部屋にある、柔らかいベッドの上に寝ている。
 どうしてそんな所に居るのかは、分からない。

 隣で安らかな寝息を立てているのは、愛しい彼。
 繋いだ手は温かい。いっそ、少し熱いくらい。
 私も彼も、死んでいない。

「おはよう。お加減はいかが?
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