絵描きと妖精

 その青年は、森の中で暮らしていた。父親の父親の、そのまた父親が建てたというログハウスに、まるで隠れ住むように。
 不便ではあるが、青年は静かなその家を気に入っていた。何より、絵を描くのにこれ以上適した環境は無いと信じていた。町まで行かなくとも、時折やってくる父の知り合いという商人から日用品を買うことで、ずっとこの森に篭っていられた。
 動物が、草木が、風が、空が、目に入る全てが、白いキャンバスの上に美しい世界を作り出してくれた。

 だが、それは、あくまでも過去の話。

「痛っ……」

 デザートナイフで切った指先に、血が滲む。指を咥え、舐め取った血の味に青年は顔をしかめた。
 少し逡巡し、リンゴの皮を剥く事は諦めてそのまま齧りつく。いつ買ったのかも覚えていない、すっかり萎びてしまったリンゴは、お世辞にも美味しい物ではなかった。

 青年の手には無数の傷跡が残っている。たった今ナイフを滑らせて付けた切り傷だけでない。火傷や刺し傷と言った、青年が今まで積み重ねてきた失敗の痕が、痛々しく刻まれている。
 リンゴを齧りながら中空を見つめるその目は虚ろで、何かを見ようとも志そうともしていない。
 ボロボロの衣服に付いた絵の具の跡だけが、有望な若き画家の影を残していた。

「……もう、いいや」

 呟いて、まだ半分も食べていないリンゴをゴミ箱のあるであろう場所に向かって放り投げる。壁に跳ね返り、床に落ちた音がした。ゴミ箱には入らなかったらしい。

 冷たい床に座り込んで、青年は窓を見た。
 時と共に変わる森の景色を四角く切り取ってくれる、その場所が好きだった。
 木にとまって求愛の歌を囀る小鳥、雪の重みに耐える草木、力強く背を伸ばす花々。心踊る全ての景色が、今はもう、見えない。
 ぼやける視界は、かろうじて外と内を判別してくれるくらいで、景色を詳細に見る力など残っていない。

「……ああ」

 鳥のような何かが、窓の外を横切った。息が白むほどの寒さの中でも、彼らは力強く生きているのだろう。

 そんな事を考え、青年はようやく自分が震えていることに気がついた。冷え切った身体が、必死に熱を生み出そうとしている。

 重い腰を上げ、暖炉へと向かう。だが、備蓄の薪すら無い事が分かり、仕方なく広いダイニングテーブルに一人座る。

「寒い、なあ……」

 そう言って、目を閉じる。思い出すのは、まだこの目が役割を果たしていた頃の、はっきりとした光景。拙い絵を自慢げに見せる自分と、それを褒めてくれた父と母の姿。あの頃に抱いた、画家として大成してみせるという夢は、今はどこかへ消えてしまった。

 呼吸が弱弱しくなっているのが、自分でも感じられる。ここのところ、まともな食事も取っていない。体が弱っているのも当然だろう。病に侵されたとしても、仕方ない。
 それでも、何かをしようとは思わなかった。今まで積み上げた全てが崩れ去った以上、このまま朽ちてしまってもいい。

 不意に、ごとん、と、何か重い物が倒れるような音がした。隣にある物置の方からだ。
 盗人だろうか。どうせ取られるような物は無い。昔描いた絵くらいだ。それも、持っていきたければ持っていけばいい。もう必要無いのだから。

「わあっ!?」

 再び、何かが倒れる音。それに今度は悲鳴も付いてきた。まだ幼さの残る少女の声。となれば、盗人ではなく迷子だろうか。
 森の中にも道があり、そこから外れなければ迷子になどならないのだが、たまに好奇心旺盛な旅人が道に戻れなくなっている事がある。そんな人を案内した事も過去にはあったが、今はこちらが案内されなければ外を歩く事もできやしない。

 だが、盗人でないのならば放っておくのも良心が咎められる。
 立ち上がるだけでも痛む体に鞭打って、青年は壁に手を付きながら物置へ向かった。
 寒風に体を震わせ、時折咳き込みながら、ぼやける視界と記憶を頼りに物置まで辿り着いた青年は、手が宙を切った事でそこにあるはずのドアが無い事に気が付いた。
 床の色と混ざって分かりづらいが、どうやらドアが外れて倒れているらしい。

 それは大した問題では無いので今は置いておくとして、重要なのはそこにいた人の方だった。無造作に立てかけておいた絵の前で止まったまま、動く気配が無い。

「……あの、すいません」

 念のため入り口横の錆び付いた鍬を握り、声をかけてみる。だが、やはり動かない。

「あー……その……」

 何と言えばいいのだろうか。青年が言葉を選んでいると、じっと止まっていた訪問者は、微動だにせず言った。

「この絵、あなたが描いたんですか?」

 至極単純な問いに、青年は眉を顰めた。

「……そうですが」

 本当は、そう答えるのも嫌だった。過去を直視できるほど、今の青年に力は残っていな
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