暗く、深い森を歩いている。
木々に打ち付ける強い雨が、耳を聾するほどの音を立てているばかりで、他の音は何も耳に入らない。自分の歩く音さえも。
ブーツは中まで浸水しきって、爪先はもう感触がなく、歩いているという実感すら薄れてゆく。
おそらく、今は日が暮れて間もない時分。まだ凍えるほどで済んでいるが、このまま森で夜を過ごす羽目になったらどうなるか。考えたくもない。
「森で迷子、か……」
遭難、という言葉は恐ろしくて口に出せない。
やはり、思いつきで森へ散歩になど繰り出すものではなかった。物書きらしく、宿に篭って机にでも向かっていればよかったのだ。
「宿から眺めたときには、これほど広い森には見えなかったが……」
取材と休暇を兼ねて訪れた、欧州の片田舎にある小さな町。
気分転換に軽く散歩しようと、宿のすぐそばにある森に繰り出してはや数時間が経っていた。
この辺りの森で度々行方不明者が出るという噂を思い出したのは、迷子になってからだった。
とりあえず歩き出したものの、同じような景色が続く森の中ではどこを歩いているのかさえわからず、次第に夜闇に包まれてくれば、足元さえ判然としない。
――闇雲に歩いても仕方ない。
夜が更けるまで待って、月の位置で方角を確かめるか。
足腰の疲れもあり、私は適当な木の根に腰を下ろした。尻からじっとりと這い登る冷気に身震いする。
「はあ……」
もはや何度目か分からないため息をついたとき。
「――そこの方」
不意にかけられた声に、飛び上がりそうになる。
振り向くと、黒い外套を纏った人影が私の傍に立っていた。
打ち付けるような雨音が、その人の周りでだけは不思議と鳴り止んでいるかのよう。
深々と被った黒いフードからはその素顔を伺えず、ただ澄んだ声からして女性であることはわかった。
「大雨の中、このようなところで如何なされたのでしょうか?」
ざあざあと木々に打ち付ける雨音のなか、その女性の声はやけに通った。
「ああ、ええと……その、道に迷って――」
「左様でしたか。近くにわたしの住む村がございます、よろしければそちらへご案内致しましょう」
「すまない、恩に着る」
「いいえ、当然のことです」
彼女が小声で何事か唱えると、青白い光球が宙に現れて辺りを照らした。
――魔物娘か。
やや体が強張る。
その存在が「発見」され、世間を騒がせたのはもう随分前のことであり、彼女らが人間に害をなす存在ではないことはつとに知られている――が。
何を考えているのか分からないのは、魔物娘も人間も同じである。
見も知らぬ他人についていって良いのかという不安が一瞬よぎるが、しかし他に為す術もない。
「失礼ですが、お手をお借りしますね……万が一にも、はぐれることが無いように」
そう言って彼女はそっと私の手を握った。優しく、しかし逃れられない強さで。手を引かれることなどいつぶりだろうと思いつつ、その手の温かさには抗い難く、私はただ頷くだけだった。
鬱蒼と茂る木々の中を、彼女は迷いもなく右に折れ左に折れ進んでゆく。しかし次第に、手を引かれる私の脳裏に、ある疑念が浮かんできた。
彼女はすでに何度も道を折れているが――都会ならいざしらず、このような深い森の中で、かくも複雑な経路を辿ることがあるだろうか?
彼女まで道に迷ったのか。あるいは私をいたずらに歩かせて、疲れきったところを――。
いよいよ彼女への疑念が強まってきた頃、突然に目の前が開けた。辿り着いたのは丘のような場所。
「ここは――」
私は言葉を失う。
この鬱蒼とした森のなかで、そこだけが開けているというだけでも奇妙であったが――それだけではない。
家ほどの太さもある巨樹が、丘の上に並ぶようにして聳え立っているのだ。
それらの木々は生育に従って徐々に捩じれており、遥か上空の方では互いに絡み合いながら、見えぬほどの高みまで梢を伸ばしている。
村、と彼女は言っていたが家は見当たらない。だが、よく見てみると巨樹の内部は刳り貫かれて家に仕立てあげられているようで、その幹のところどころにある窓からは温かい光がこぼれていた。
「ふう……着きましたね、ご足労頂いて申し訳ありません。ここは外からは秘匿された、いわば隠れ里のような場所でして――さあ、わたしの家にご案内いたしましょう。大して広くもない家ですが……」
「ああ……ありがとう」
ひとつの巨樹の前で、私たちを先導していた光球が止まり、カンテラに灯った。
「どうぞ、こちらへ――」
戸を開いた彼女が、外套のフードを外す。
「申し遅れました。わたしはルルシュラ――キキーモラのルルシュラでございます」
濡れた灰色の髪。細面の顔に、生真面目そうな大きな瞳。
暗くてはっきりとは分からない
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